パレスチナ低抗運動の足跡1
投稿者: jyonnconner 投稿日時: 2007/05/16 02:09 投稿番号: [13334 / 20008]
http://homepage1.nifty.com/KASAI-CHAPPUIS/IchiroABEMasaoPalestine.htm
(前略)
ユダヤ人が一九世紀の終りにパレスチナにやってきたとき、その最初のユダヤ人たちはヨーロッパやロシアにおける迫害の犠牲者あるいは聖地への”巡礼”としてむしろ暖かく迎え入れられた。
一九一九年の一月、ワイズマンとファイサルは、バルフォア宣言の履行をうたった文書の中でユダヤ人の移民への協力を誓ったのもファイサルがイギリスから「大シリア王国」を獲得しようとするための譲歩であるとはいえアラブの寛容性を示すものであった。ヘルツル自身も第一アリアの移民にたいする「住民の友好的態度」を記録している(質問44注18参照)。
しかし、パレスチナにずかずか入ってきたシオニスト・ユダヤ人たちはワイズマンがいっていたようなパレスチナ・アラブ人に恩恵をもたらすような種類の人種ではなかった。暴力によるパレスチナ・アラブ人の追放というシオニストの野望が知られるようになるにつれて、当然のことながらアラブ人の烈しい抵抗にあった。
このことは、本文にもあるように、相次いで発生した騒乱のあとに派遣された使節団が「ユダヤ人国家」の創設はパレスチナ住民の権利と両立しないと異口同音に報告し、その度にイギリスの本国政府を動揺させたのである。以下その歴史を簡単に振り返ってみよう。
一九一九年、ウィルソン米大統領から派遣されたキング・クレーン委員会は、現地におけるアラブの独立要求の声に大きく影響され、ユダヤ人の移民の明確な制限、パレスチナをユダヤ人共和国にする計画の放棄、パレスチナの統一シリアヘの包含などを講和会議に勧告した。
一九二一年には、ユダヤ人の不法な移民に抗議して、反乱が発生、全面的なストライキが勃発し、パレスチナ・アラブ人会議は、バルフォア宣言こそ、ユダヤ人の大量移民の原因だと抗議文を送った、ユダヤ人、アラブ人に多くの死傷者を出したこの反乱に驚いた初代高等弁務官ハーバート・サミュエルは、ユダヤ人の移民中止を発表した。調査にあたったヘイクラフト委員会は、この暴動の原因をイギリスのユダヤ人優過政策とシオニストの権力拡張とし、イギリスの上院は、バルフォア宣言の廃棄を可決、辛うじて下院で否決されるほどであった。
一九二九年、数百人の死傷者を出したエルサレムの嘆きの壁事件の直後に派遣されたショウ委員会もユダヤ人移民の管理を強く要求し、さらにホープ・シンプソン委員会も、もはやユダヤ人を受入れる余地はないことを報告し、翌一九三○年、イギリスはパスフイールド白書を発表、ユダヤ人移民の制限とパレスチナにおける自治制度確立を勧告した。
しかし、一九三二年のナチ・ドイツの抬頭によってヨーロッパを追われたユダヤ人の移民は急激にふくれ上り、一九三三〜三五年の三年間には一三万三三〇〇人と激増した。アラブ諸政党は、(一)民主主義議会の設立、(二)ユダヤ人への土地の売却の禁止、(三)ユダヤ人の移民の中止を呼びかけ、発生後六ヵ月続いた一九三六年の歴史的な民族的反乱に発展し、同時に、隣接諸国からのアラブの義勇兵も参加した。
このときその鎮圧に手こずったイギリスは、公然とユダヤ人の武装訓練にとりかかったのである。
一九三六年には、エルサレムの大司教ハジ・アミン・エル・フセイニを指導者とする、主に民族資本家や地主の連合体であったアラブ高等委員会が結成された。
またこの大反乱のあと派遣されたピール委員会が、始めてアラブ・ユダヤ両国家という分割案を勧告したが、このときにユダヤ人国家に割当てられたのは、実際の所有の五・四%を遙かに上廻るパレスチナの四分の一の面積であった。一九三七年開かれた汎アラブ会議は、この案を断固拒否、またも大規模な反乱が発生し、多数の死傷者を出すにいたった。
一九三八年のウッドヘッド委員会は、実効的な分割案は不可能と報告した。一方、パレスチナの反乱もイギリス軍の力でようやく鎮圧された。
しかし、戦争がヨーロッパで拡大されるにつれ、イギリスは一九三八年、ロンドンの円卓会議で事態の収拾を企てたが失敗し、ついに一目も早いパレスチナ間題の決着を迫られ、一九三九年五月マクドナルド白書を発表した。これはアラブ・ユダヤの二民族共同国家の樹立と人口比におうじる立法議会をもうける、ユダヤ人の移民は今後五年間に七万五〇〇〇人とし、それ以上の移民はアラブ人の合意なしには許さぬというものであった。これによってユダヤ人の反英テロ活動が激化したのである。
一九四五年には、アラブ諸国の団結、独立の強化、法制、通貨、教育の二元化と関税障壁の撤廃などをめざすアラブ連盟が結成された。
(前略)
ユダヤ人が一九世紀の終りにパレスチナにやってきたとき、その最初のユダヤ人たちはヨーロッパやロシアにおける迫害の犠牲者あるいは聖地への”巡礼”としてむしろ暖かく迎え入れられた。
一九一九年の一月、ワイズマンとファイサルは、バルフォア宣言の履行をうたった文書の中でユダヤ人の移民への協力を誓ったのもファイサルがイギリスから「大シリア王国」を獲得しようとするための譲歩であるとはいえアラブの寛容性を示すものであった。ヘルツル自身も第一アリアの移民にたいする「住民の友好的態度」を記録している(質問44注18参照)。
しかし、パレスチナにずかずか入ってきたシオニスト・ユダヤ人たちはワイズマンがいっていたようなパレスチナ・アラブ人に恩恵をもたらすような種類の人種ではなかった。暴力によるパレスチナ・アラブ人の追放というシオニストの野望が知られるようになるにつれて、当然のことながらアラブ人の烈しい抵抗にあった。
このことは、本文にもあるように、相次いで発生した騒乱のあとに派遣された使節団が「ユダヤ人国家」の創設はパレスチナ住民の権利と両立しないと異口同音に報告し、その度にイギリスの本国政府を動揺させたのである。以下その歴史を簡単に振り返ってみよう。
一九一九年、ウィルソン米大統領から派遣されたキング・クレーン委員会は、現地におけるアラブの独立要求の声に大きく影響され、ユダヤ人の移民の明確な制限、パレスチナをユダヤ人共和国にする計画の放棄、パレスチナの統一シリアヘの包含などを講和会議に勧告した。
一九二一年には、ユダヤ人の不法な移民に抗議して、反乱が発生、全面的なストライキが勃発し、パレスチナ・アラブ人会議は、バルフォア宣言こそ、ユダヤ人の大量移民の原因だと抗議文を送った、ユダヤ人、アラブ人に多くの死傷者を出したこの反乱に驚いた初代高等弁務官ハーバート・サミュエルは、ユダヤ人の移民中止を発表した。調査にあたったヘイクラフト委員会は、この暴動の原因をイギリスのユダヤ人優過政策とシオニストの権力拡張とし、イギリスの上院は、バルフォア宣言の廃棄を可決、辛うじて下院で否決されるほどであった。
一九二九年、数百人の死傷者を出したエルサレムの嘆きの壁事件の直後に派遣されたショウ委員会もユダヤ人移民の管理を強く要求し、さらにホープ・シンプソン委員会も、もはやユダヤ人を受入れる余地はないことを報告し、翌一九三○年、イギリスはパスフイールド白書を発表、ユダヤ人移民の制限とパレスチナにおける自治制度確立を勧告した。
しかし、一九三二年のナチ・ドイツの抬頭によってヨーロッパを追われたユダヤ人の移民は急激にふくれ上り、一九三三〜三五年の三年間には一三万三三〇〇人と激増した。アラブ諸政党は、(一)民主主義議会の設立、(二)ユダヤ人への土地の売却の禁止、(三)ユダヤ人の移民の中止を呼びかけ、発生後六ヵ月続いた一九三六年の歴史的な民族的反乱に発展し、同時に、隣接諸国からのアラブの義勇兵も参加した。
このときその鎮圧に手こずったイギリスは、公然とユダヤ人の武装訓練にとりかかったのである。
一九三六年には、エルサレムの大司教ハジ・アミン・エル・フセイニを指導者とする、主に民族資本家や地主の連合体であったアラブ高等委員会が結成された。
またこの大反乱のあと派遣されたピール委員会が、始めてアラブ・ユダヤ両国家という分割案を勧告したが、このときにユダヤ人国家に割当てられたのは、実際の所有の五・四%を遙かに上廻るパレスチナの四分の一の面積であった。一九三七年開かれた汎アラブ会議は、この案を断固拒否、またも大規模な反乱が発生し、多数の死傷者を出すにいたった。
一九三八年のウッドヘッド委員会は、実効的な分割案は不可能と報告した。一方、パレスチナの反乱もイギリス軍の力でようやく鎮圧された。
しかし、戦争がヨーロッパで拡大されるにつれ、イギリスは一九三八年、ロンドンの円卓会議で事態の収拾を企てたが失敗し、ついに一目も早いパレスチナ間題の決着を迫られ、一九三九年五月マクドナルド白書を発表した。これはアラブ・ユダヤの二民族共同国家の樹立と人口比におうじる立法議会をもうける、ユダヤ人の移民は今後五年間に七万五〇〇〇人とし、それ以上の移民はアラブ人の合意なしには許さぬというものであった。これによってユダヤ人の反英テロ活動が激化したのである。
一九四五年には、アラブ諸国の団結、独立の強化、法制、通貨、教育の二元化と関税障壁の撤廃などをめざすアラブ連盟が結成された。
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