漢字の伝来 - 中国or朝鮮半島から?
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/06 19:08 投稿番号: [48785 / 73791]
投稿者:チー
漢字が我が国に伝えられたのは中国本土から直接だったか、あるいは朝鮮半島経由だったかは不明である。一説には、漢字の伝来は紀元前3世紀まで遡る可能性が高いとする説がある。その説によれば、秦の始皇帝が国土の統一事業に乗り出したことで、始皇帝に追われ国を挙げての流亡の動きが始まった。その一環として、山東半島付近から十余万人人々が日本列島に渡来し、稲作文明を伝え、弥生時代が始まったという。後に「倭(わ)」と称する国名はこれらの人々の故郷の地名であった可能性が高い。
紀元前後の我が国は、まだ弥生時代のまっただ中である。それでも、多くの小国が漢帝国と通交していた。その証拠は、あちこちの遺跡から出土する「貨泉」の存在である。中国で貨泉が初めて鋳造されたのは、前漢を滅ぼした新の時代の天鳳元年(西暦14年)である。新はわずか17年の短命王朝で、西暦25年には後漢にとって代わられ、貨泉の通用は禁止された。したがって、この貨幣の通用期間はわずか35年にすぎない。
我が国では、対馬、壱岐をはじめ佐賀県から福岡県の海岸に沿った地域や、河内平野のかっての「河内潟」の南岸に沿う港津集落跡から、貨泉が出土している。これらの地域は、いずれも港津があったところで、貨泉の存在は、倭の国々と中国の新との間で頻繁に交流が行われたことを物語っている。交易には貨泉が支払い通貨として用いられたかもしれない。
洋の東西を問わず、交易は書類を仲立ちして行われることは今も昔も変わりはない。つまり、紀元前後の頃交易に従事していた倭人たちは漢字を読んで理解する能力があったと思われる。交易だけではない。漢王朝との外交にも文書が仲立ちしたはずである。紀元57年、倭の奴国王は後漢に朝貢し、光武帝から「漢倭奴国王」の金印を下賜されている。この朝貢使節団を構成したのは、おそらく大陸または半島からの渡来人の後裔であろう。当然のことながら、漢語を理解し、漢字を読むことができた。
3世紀になると、邪馬台国と中国の魏との通交が開始される。史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によれば、景初三年(西暦239年)、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)は魏に朝貢し、「親魏倭王」の金印や「銅鏡百枚」を贈られている。その後、正始八年(247)には、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼がたがいに攻撃する状況に至ったため、魏は帯方郡から曹掾史(国境守備の属官)の張政らを邪馬台国に派遣し、詔書・黄憧をもたらし、また檄(げき)をつくって、攻めあうことのないよう告諭した。邪馬台国と魏とのこれら一連の外交でも、当然のことながら公式な文書を介した交渉が行われたことは、想像に難くない。
では、当時の倭人たちが漢字を理解し、使用したことを考古学的に証明できるのか。実は可能なのである。三重県安濃町にある大城古墳群の住居跡から出土した2世紀前半の弥生式土器の高坏には、脚の部分に「奉」あるいは「年」と読める文字が刻まれていた。同じく三重県嬉野中川町の貝蔵遺跡から平成9年に出土した3世紀初頭の土器片には、明らかに筆に墨を含ませて「い」の字風に墨書されている。また貝蔵遺跡に近い片部遺跡からは、4世紀初め頃の「田」字を墨書した土器が平成7年に見つかっている。興味深いのは、三重県のこれら3つの遺跡は、いずれも交易が行われたかっての港津集落、すなわち先進的な文化が受け入れられ発揮された場所である。2世紀頃から交易のために文字を操ることができる集団がいたことは間違いない。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_04_10.htm
チー:また、朝鮮半島でも古くから漢字が使用されているようです。日本は百済からも仏教とともに五経博士(中国人)を招聘しています。
五経博士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E5%8D%9A%E5%A3%AB
漢字が我が国に伝えられたのは中国本土から直接だったか、あるいは朝鮮半島経由だったかは不明である。一説には、漢字の伝来は紀元前3世紀まで遡る可能性が高いとする説がある。その説によれば、秦の始皇帝が国土の統一事業に乗り出したことで、始皇帝に追われ国を挙げての流亡の動きが始まった。その一環として、山東半島付近から十余万人人々が日本列島に渡来し、稲作文明を伝え、弥生時代が始まったという。後に「倭(わ)」と称する国名はこれらの人々の故郷の地名であった可能性が高い。
紀元前後の我が国は、まだ弥生時代のまっただ中である。それでも、多くの小国が漢帝国と通交していた。その証拠は、あちこちの遺跡から出土する「貨泉」の存在である。中国で貨泉が初めて鋳造されたのは、前漢を滅ぼした新の時代の天鳳元年(西暦14年)である。新はわずか17年の短命王朝で、西暦25年には後漢にとって代わられ、貨泉の通用は禁止された。したがって、この貨幣の通用期間はわずか35年にすぎない。
我が国では、対馬、壱岐をはじめ佐賀県から福岡県の海岸に沿った地域や、河内平野のかっての「河内潟」の南岸に沿う港津集落跡から、貨泉が出土している。これらの地域は、いずれも港津があったところで、貨泉の存在は、倭の国々と中国の新との間で頻繁に交流が行われたことを物語っている。交易には貨泉が支払い通貨として用いられたかもしれない。
洋の東西を問わず、交易は書類を仲立ちして行われることは今も昔も変わりはない。つまり、紀元前後の頃交易に従事していた倭人たちは漢字を読んで理解する能力があったと思われる。交易だけではない。漢王朝との外交にも文書が仲立ちしたはずである。紀元57年、倭の奴国王は後漢に朝貢し、光武帝から「漢倭奴国王」の金印を下賜されている。この朝貢使節団を構成したのは、おそらく大陸または半島からの渡来人の後裔であろう。当然のことながら、漢語を理解し、漢字を読むことができた。
3世紀になると、邪馬台国と中国の魏との通交が開始される。史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によれば、景初三年(西暦239年)、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)は魏に朝貢し、「親魏倭王」の金印や「銅鏡百枚」を贈られている。その後、正始八年(247)には、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼がたがいに攻撃する状況に至ったため、魏は帯方郡から曹掾史(国境守備の属官)の張政らを邪馬台国に派遣し、詔書・黄憧をもたらし、また檄(げき)をつくって、攻めあうことのないよう告諭した。邪馬台国と魏とのこれら一連の外交でも、当然のことながら公式な文書を介した交渉が行われたことは、想像に難くない。
では、当時の倭人たちが漢字を理解し、使用したことを考古学的に証明できるのか。実は可能なのである。三重県安濃町にある大城古墳群の住居跡から出土した2世紀前半の弥生式土器の高坏には、脚の部分に「奉」あるいは「年」と読める文字が刻まれていた。同じく三重県嬉野中川町の貝蔵遺跡から平成9年に出土した3世紀初頭の土器片には、明らかに筆に墨を含ませて「い」の字風に墨書されている。また貝蔵遺跡に近い片部遺跡からは、4世紀初め頃の「田」字を墨書した土器が平成7年に見つかっている。興味深いのは、三重県のこれら3つの遺跡は、いずれも交易が行われたかっての港津集落、すなわち先進的な文化が受け入れられ発揮された場所である。2世紀頃から交易のために文字を操ることができる集団がいたことは間違いない。
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_04_10.htm
チー:また、朝鮮半島でも古くから漢字が使用されているようです。日本は百済からも仏教とともに五経博士(中国人)を招聘しています。
五経博士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E5%8D%9A%E5%A3%AB
これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.