古朝鮮の歴史 - 朝鮮四郡^^
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/03 23:59 投稿番号: [48640 / 73791]
投稿者:直子
朝鮮四郡
『漢書』食貨志
元朔元年(紀元前128年)、彭呉(遼東太守)は穢貊(わいはく)と朝鮮を破り、その地を支配するため滄海郡を置いたが、三年後には廃止した。
この当時、漢王朝は遼東以遠の辺境を積極的に支配する意志がなかったのだろう。南方で騒乱が生じると滄海郡への兵員派遣を中止して、その兵員を南方にまわし、維持管理が困難となった滄海郡を廃止した。だが、この二十年後、衛氏朝鮮が遼東に攻め込み、漢の統治官である都尉を殺害したことで状況が一変する。
『通典』邊防
武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺王右渠来降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、楽浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并楽浪、玄菟。
元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡る。兵五万。左將軍の荀彘は遼東を出て、右渠を討つ。朝鮮人は右渠を殺して帰伏。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃し、楽浪と玄菟に併合した。
武帝は辰国の入貢を阻止し、都尉を殺害した右渠(衛満の孫)の衛氏朝鮮を討滅した。
今回は漢王朝も本気で遼東地方を植民地として支配するため、朝鮮国を楽浪郡、玄菟国を玄菟郡、臨屯国を臨屯郡、真番国を真番郡に格下げして、統治官を派遣することにした。
『楽浪郡』(らくろうぐん)
楽浪郡は、朝鮮国の旧領地に配した郡。郡治は朝鮮県の王険城(平壌市大同江の南岸)に置かれたが、その場所については説が多く、いまだに特定されていない。
北魏の地理書『水経注』では、設置当初の郡治は大同江の北岸に在ったと記しており、朝鮮国の王都だった王険城とは位置が異なることから、1913年に土城里で発見された土城の遺構(大同江の南岸)が郡治址である(否定論もある)として「楽浪土城」と呼ばれる。
だが、当初から楽浪土城だったとする説と、当初は大同江北岸にあったが、高句麗の圧迫を受け、後漢時代に南岸の楽浪土城に還ったとする説に別れている。
また、王険城の位置にも疑問があり、朝鮮四郡はいずれも位置が確定されていない。
『朝鮮新報』(2003年5月20日版)
『史記』朝鮮列伝には「武帝は王険城を攻略するため、樓船将軍の楊僕が率いる水軍を河口に向かわせたが、すぐに右渠が城から出撃してきて漢の水軍を撃ち払った」と記されているが、すぐに迎撃するには現在の王険城では河口から離れすぎており、本来の王険城とは位置が異なるとの説も出てきた。
①楽浪郡の設置
紀元前108年、朝鮮国の旧領に楽浪郡を設置した。
『三国志魏書』穢伝
自單單大山領以西屬樂浪、自領以東七縣、都尉主之、皆以濊為民。後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。
単々大山領(馬息嶺山脈)より以西は楽浪郡に属す、領(単々大山領)より以東の七県は都尉がこれを統べる、そこは皆、濊を以て民となす。後に都尉を省き、そこの渠師を諸侯として封じた、今の不耐濊侯は皆、その類である。漢末には高句麗に属した。
楽浪郡の統括範囲は「単々大山領より以西は楽浪郡に属す」とあるが、張鳳台(清朝末の学者)は單單大山領を、次のように比定している。
「単々は、満語の珊延に音近し、即ち長白山である。七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。漢時の楽浪は奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天からわずか千五百里。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし」
だが、上記の穢伝では「山領より以東の七県は皆、濊を民となす」とあり、東部都尉の官府は「濊」の王城の「不耐城」に置かれており、長白山の東では「沃沮」の居住領域となり不合理である。筆者は、濊と朝鮮の境界だったと思われる馬息嶺山脈だと考える。
②二郡の廃止
紀元前82年、真番郡と臨屯郡が廃止され、楽浪郡と玄菟郡に併合された。
『後漢書』東夷伝濊条
始元五年(紀元前82年)、臨屯と真番を廃止し、楽浪と玄菟に併せる。・・・<続きは以下をクリックしてください。地図もあります>
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen5-kanyongun.htm
朝鮮四郡
『漢書』食貨志
元朔元年(紀元前128年)、彭呉(遼東太守)は穢貊(わいはく)と朝鮮を破り、その地を支配するため滄海郡を置いたが、三年後には廃止した。
この当時、漢王朝は遼東以遠の辺境を積極的に支配する意志がなかったのだろう。南方で騒乱が生じると滄海郡への兵員派遣を中止して、その兵員を南方にまわし、維持管理が困難となった滄海郡を廃止した。だが、この二十年後、衛氏朝鮮が遼東に攻め込み、漢の統治官である都尉を殺害したことで状況が一変する。
『通典』邊防
武帝元封三年、遣樓船將軍楊僕從齊浮渤海、兵五萬、左將軍荀彘出遼東、討之。朝鮮人相與殺王右渠来降。遂以朝鮮為真蕃、臨屯、楽浪、玄菟四郡。今悉為東夷之地。昭帝時罷臨屯、真蕃以并楽浪、玄菟。
元封三年(前108年)、楼船將軍の楊僕は斉から渤海を渡る。兵五万。左將軍の荀彘は遼東を出て、右渠を討つ。朝鮮人は右渠を殺して帰伏。朝鮮を真蕃、臨屯、楽浪、玄菟の四郡となした。今はすべて東夷の地。昭帝の時、臨屯と真蕃を廃し、楽浪と玄菟に併合した。
武帝は辰国の入貢を阻止し、都尉を殺害した右渠(衛満の孫)の衛氏朝鮮を討滅した。
今回は漢王朝も本気で遼東地方を植民地として支配するため、朝鮮国を楽浪郡、玄菟国を玄菟郡、臨屯国を臨屯郡、真番国を真番郡に格下げして、統治官を派遣することにした。
『楽浪郡』(らくろうぐん)
楽浪郡は、朝鮮国の旧領地に配した郡。郡治は朝鮮県の王険城(平壌市大同江の南岸)に置かれたが、その場所については説が多く、いまだに特定されていない。
北魏の地理書『水経注』では、設置当初の郡治は大同江の北岸に在ったと記しており、朝鮮国の王都だった王険城とは位置が異なることから、1913年に土城里で発見された土城の遺構(大同江の南岸)が郡治址である(否定論もある)として「楽浪土城」と呼ばれる。
だが、当初から楽浪土城だったとする説と、当初は大同江北岸にあったが、高句麗の圧迫を受け、後漢時代に南岸の楽浪土城に還ったとする説に別れている。
また、王険城の位置にも疑問があり、朝鮮四郡はいずれも位置が確定されていない。
『朝鮮新報』(2003年5月20日版)
『史記』朝鮮列伝には「武帝は王険城を攻略するため、樓船将軍の楊僕が率いる水軍を河口に向かわせたが、すぐに右渠が城から出撃してきて漢の水軍を撃ち払った」と記されているが、すぐに迎撃するには現在の王険城では河口から離れすぎており、本来の王険城とは位置が異なるとの説も出てきた。
①楽浪郡の設置
紀元前108年、朝鮮国の旧領に楽浪郡を設置した。
『三国志魏書』穢伝
自單單大山領以西屬樂浪、自領以東七縣、都尉主之、皆以濊為民。後省都尉、封其渠帥為侯、今不耐濊皆其種也。漢末更屬句麗。
単々大山領(馬息嶺山脈)より以西は楽浪郡に属す、領(単々大山領)より以東の七県は都尉がこれを統べる、そこは皆、濊を以て民となす。後に都尉を省き、そこの渠師を諸侯として封じた、今の不耐濊侯は皆、その類である。漢末には高句麗に属した。
楽浪郡の統括範囲は「単々大山領より以西は楽浪郡に属す」とあるが、張鳳台(清朝末の学者)は單單大山領を、次のように比定している。
「単々は、満語の珊延に音近し、即ち長白山である。七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。漢時の楽浪は奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天からわずか千五百里。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし」
だが、上記の穢伝では「山領より以東の七県は皆、濊を民となす」とあり、東部都尉の官府は「濊」の王城の「不耐城」に置かれており、長白山の東では「沃沮」の居住領域となり不合理である。筆者は、濊と朝鮮の境界だったと思われる馬息嶺山脈だと考える。
②二郡の廃止
紀元前82年、真番郡と臨屯郡が廃止され、楽浪郡と玄菟郡に併合された。
『後漢書』東夷伝濊条
始元五年(紀元前82年)、臨屯と真番を廃止し、楽浪と玄菟に併せる。・・・<続きは以下をクリックしてください。地図もあります>
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これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.