古朝鮮の歴史 - 辰国
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/04 00:05 投稿番号: [48641 / 73791]
投稿者:直子
辰国
辰国は、どの時代に成立したのか、また、どの民族が創建したのかも不明とされる。
歴史に名を知られるのは衛氏朝鮮の出現した前漢初期だが、朝鮮半島南部は三国志魏書で紹介されるまでは、中華王朝には蛮夷の住む異郷としか映らなかったようで、中国の正史も詳細を伝えていない。
辰国の国王が韓王を号したことから、韓族が建てた国家との推論もあるが、考古学的に実証された訳ではない。大陸と大海の両面から移住できる半島の性格上、今後も韓族のルーツを解明するのは困難だろうと思われる。
辰国が知られた当時は、北西部には箕子朝鮮、北部から東北にかけては穢族の集団、西南に馬韓となる。馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓とした。辰王は月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。
紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕氏最後の準侯は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(辰)王となったが、一代で終わり、再び韓人が復位した。
北西部には箕氏のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置された。
紀元前二世紀末、扶余族は満州平原に進み、そこでツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。
四世紀前半、高句麗や鮮卑の圧迫を受けて扶余国は滅亡するが、一人の王子が逃れて、東扶余国を建てる。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れた後に、朝鮮半島に侵入し、馬韓に攻め、制圧してしまう。これが百済の建国である。このとき辰国は解体する。
『後漢書』弁辰伝。
初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。
初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になった。
これは、燕国から千余の兵士を連れて朝鮮に逃亡してきた満(衛満)によって国家を簒奪された朝鮮王準の後事を記したもの。具体的な年は不明だが、紀元前195年に燕王が匈奴に亡命しており、同時期に衛満も燕国を脱出いるはず。そこから朝鮮の王権を奪取するまでに何年を要したかだが、10年前後のことではないかと想像する。
いずれにせよ、紀元前二世紀には辰国が存在していたことだけは確実である。
『京畿道の由来』
京畿道は、漢江に沿って肥えた平野が発達して、先史時代から人々が定着した地である。 漣川郡田穀里の旧石器時代遺跡地、河南市ミサ洞の新石器時代遺跡、そして驪州フンアムリの青銅器時代遺跡などがそれを証明している。
紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があったと推定される。以後京畿地域は馬韓連盟体に属したが, 連盟五十四カ国のなかの十余の小国が京畿道地域に分布した。
紀元前75年、辰国が三国に分離され、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼした馬韓と辰韓の地になった京畿道は、政治的には月支国の盟主である辰王の支配下にあった。
上記は、韓国京畿道の案内サイト(http://japanese.gg.go.kr/index.jsp)に掲載された文面(無断で筆者が日本文を修正したが)だが、地元の自治体も辰国の誕生年代については把握できていないようだ。
『三国志魏書』馬韓伝
魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。
魏略には、初め、右渠がまだ破れていない時、朝鮮の宰相である歴谿卿が右渠に諌言をしたが用いられず、東の辰国に亡命した。そのとき朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国に移住した。朝鮮の属国とも往来をしなかった。
衛氏朝鮮の重臣が、国王の右渠に叛いて辰国に亡命した記述の一節だが、衛氏朝鮮も半島南部(漢江流域)にまでは支配力が届いていなかったようだ。衛氏朝鮮が辰国の朝貢を妨げたことが朝鮮討伐の名目とされ、紀元前108年に衛氏朝鮮は滅ぼされるが、その支配領域に設置された楽浪郡など朝鮮四郡のどこにも辰国は帰属していない。・・・<続きは以下をクリック>
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen6-sinkoku.htm
辰国
辰国は、どの時代に成立したのか、また、どの民族が創建したのかも不明とされる。
歴史に名を知られるのは衛氏朝鮮の出現した前漢初期だが、朝鮮半島南部は三国志魏書で紹介されるまでは、中華王朝には蛮夷の住む異郷としか映らなかったようで、中国の正史も詳細を伝えていない。
辰国の国王が韓王を号したことから、韓族が建てた国家との推論もあるが、考古学的に実証された訳ではない。大陸と大海の両面から移住できる半島の性格上、今後も韓族のルーツを解明するのは困難だろうと思われる。
辰国が知られた当時は、北西部には箕子朝鮮、北部から東北にかけては穢族の集団、西南に馬韓となる。馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓とした。辰王は月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。
紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕氏最後の準侯は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(辰)王となったが、一代で終わり、再び韓人が復位した。
北西部には箕氏のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置された。
紀元前二世紀末、扶余族は満州平原に進み、そこでツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。
四世紀前半、高句麗や鮮卑の圧迫を受けて扶余国は滅亡するが、一人の王子が逃れて、東扶余国を建てる。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れた後に、朝鮮半島に侵入し、馬韓に攻め、制圧してしまう。これが百済の建国である。このとき辰国は解体する。
『後漢書』弁辰伝。
初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。
初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になった。
これは、燕国から千余の兵士を連れて朝鮮に逃亡してきた満(衛満)によって国家を簒奪された朝鮮王準の後事を記したもの。具体的な年は不明だが、紀元前195年に燕王が匈奴に亡命しており、同時期に衛満も燕国を脱出いるはず。そこから朝鮮の王権を奪取するまでに何年を要したかだが、10年前後のことではないかと想像する。
いずれにせよ、紀元前二世紀には辰国が存在していたことだけは確実である。
『京畿道の由来』
京畿道は、漢江に沿って肥えた平野が発達して、先史時代から人々が定着した地である。 漣川郡田穀里の旧石器時代遺跡地、河南市ミサ洞の新石器時代遺跡、そして驪州フンアムリの青銅器時代遺跡などがそれを証明している。
紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があったと推定される。以後京畿地域は馬韓連盟体に属したが, 連盟五十四カ国のなかの十余の小国が京畿道地域に分布した。
紀元前75年、辰国が三国に分離され、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼした馬韓と辰韓の地になった京畿道は、政治的には月支国の盟主である辰王の支配下にあった。
上記は、韓国京畿道の案内サイト(http://japanese.gg.go.kr/index.jsp)に掲載された文面(無断で筆者が日本文を修正したが)だが、地元の自治体も辰国の誕生年代については把握できていないようだ。
『三国志魏書』馬韓伝
魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。
魏略には、初め、右渠がまだ破れていない時、朝鮮の宰相である歴谿卿が右渠に諌言をしたが用いられず、東の辰国に亡命した。そのとき朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国に移住した。朝鮮の属国とも往来をしなかった。
衛氏朝鮮の重臣が、国王の右渠に叛いて辰国に亡命した記述の一節だが、衛氏朝鮮も半島南部(漢江流域)にまでは支配力が届いていなかったようだ。衛氏朝鮮が辰国の朝貢を妨げたことが朝鮮討伐の名目とされ、紀元前108年に衛氏朝鮮は滅ぼされるが、その支配領域に設置された楽浪郡など朝鮮四郡のどこにも辰国は帰属していない。・・・<続きは以下をクリック>
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これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.