古朝鮮の歴史 - 衛氏朝鮮^^
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/03 23:47 投稿番号: [48638 / 73791]
衛氏朝鮮
『史記』朝鮮列伝
朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。
朝鮮王の満とは、昔の燕の国民である。燕は全盛期の初めから真番と朝鮮を服属せしめ、統治官を置いて鄣(楽浪郡有雲鄣)を塞いでいたことがある。
秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。
秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(がいげき=異民族)を帰属させた。
漢王朝が勃興すると、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕の遼東長城)を修復し、浿水(ばいすい)までを国境として、燕に属させた。
燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡浿水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。
燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、浿水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。
紀元前202年、項羽との熾烈な争いに勝利し、漢帝国を建てた劉邦(高祖)だが、やがて猜疑心を募らせるようになり、次々と建国の元勲らを誅殺し、遂には幼少からの親友である燕王の盧綰にも討伐軍を向けた。だが、盧綰は劉邦と戦うことを避け、一族を連れて万余の兵とともに長城の関所付近に退避した。
紀元前195年、燕に侵入した漢軍は18県51郷邑を平定したが、劉邦崩御の急報が届くと全軍が退却した。そして、劉邦が死んだことで漢王室との和解を断念した盧綰も軍勢を引き連れて長城の外に出て、東胡を滅ぼして強勢となった匈奴王の冒頓単于(ぼくとつぜんう)のもとに亡命した。これを喜んだ冒頓単于は盧綰を東胡王に任じた。
満が千余の兵を連れて燕を脱出した時期もこの前後だろう。
髷を結い、蛮夷の服を着るのは東夷の風習であり、司馬遷は満を、燕に仕えていた東夷の武将か、従属していた部族長だと考えたようだ。満については姓も官位も伝わっていない。後に中国の正史には「衛満」と記されるが、満を長城の衛士だと考えたのかもしれない。
秦時代の昔の空地が、どの地域を指すのかは不明だが、燕の遼東長城の東端は大同江沿岸の「満潘汗」、それを秦が補強したが、前漢は新たな長城を築いており、その東端は清川江沿岸の「浿水県」であることから、おそらく清川江と大同江の狭間を指すのだろう。
『漢書』朝鮮伝
朝鮮王滿、燕人。自始燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏築障。秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。燕王盧綰反、入匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、椎結蠻夷服而東走出塞、度浿水、居秦故空地上下障、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡在者王之、都王險。
内容は史記と同一だが、史記は「鄣塞」「上下鄣」、注記「地理志では楽浪郡の有雲鄣のこと」とあるが、漢書は「築障」「上下障」としている。障は「障壁=長城」であり、筆者も長城のことだと考え、満は長城の関所を出入したとした。
また、漢書は浿水を「楽浪の浿水県」、史記は「地理志では浿水の東に出れば塞(長城)外、西南に至り、楽浪の西から海に入る」と注記がある。現在の大同江のことである。
満は、燕の滅亡で遼東郡の統治体制が乱れ、統治者不在となった清川江と大同江の狭間に拠点を置き、そこから長城を出入して、燕に従属していた真番や朝鮮などの蛮夷、および燕や斉の流民(異民族)などを結集して、その王になったのだろう。・・・<続きは以下をクリックしてください>
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm
『史記』朝鮮列伝
朝鮮王滿者、故燕人也。自始全燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏、鄣塞。
朝鮮王の満とは、昔の燕の国民である。燕は全盛期の初めから真番と朝鮮を服属せしめ、統治官を置いて鄣(楽浪郡有雲鄣)を塞いでいたことがある。
秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為其遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。
秦が燕を滅ぼし、遼東の外徼(がいげき=異民族)を帰属させた。
漢王朝が勃興すると、そこが遠方で守るのが難しいので、遼東の故塞(燕の遼東長城)を修復し、浿水(ばいすい)までを国境として、燕に属させた。
燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡浿水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。
燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、浿水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。
紀元前202年、項羽との熾烈な争いに勝利し、漢帝国を建てた劉邦(高祖)だが、やがて猜疑心を募らせるようになり、次々と建国の元勲らを誅殺し、遂には幼少からの親友である燕王の盧綰にも討伐軍を向けた。だが、盧綰は劉邦と戦うことを避け、一族を連れて万余の兵とともに長城の関所付近に退避した。
紀元前195年、燕に侵入した漢軍は18県51郷邑を平定したが、劉邦崩御の急報が届くと全軍が退却した。そして、劉邦が死んだことで漢王室との和解を断念した盧綰も軍勢を引き連れて長城の外に出て、東胡を滅ぼして強勢となった匈奴王の冒頓単于(ぼくとつぜんう)のもとに亡命した。これを喜んだ冒頓単于は盧綰を東胡王に任じた。
満が千余の兵を連れて燕を脱出した時期もこの前後だろう。
髷を結い、蛮夷の服を着るのは東夷の風習であり、司馬遷は満を、燕に仕えていた東夷の武将か、従属していた部族長だと考えたようだ。満については姓も官位も伝わっていない。後に中国の正史には「衛満」と記されるが、満を長城の衛士だと考えたのかもしれない。
秦時代の昔の空地が、どの地域を指すのかは不明だが、燕の遼東長城の東端は大同江沿岸の「満潘汗」、それを秦が補強したが、前漢は新たな長城を築いており、その東端は清川江沿岸の「浿水県」であることから、おそらく清川江と大同江の狭間を指すのだろう。
『漢書』朝鮮伝
朝鮮王滿、燕人。自始燕時、嘗略屬真番、朝鮮、為置吏築障。秦滅燕、屬遼東外徼。漢興、為遠難守、復修遼東故塞、至浿水為界、屬燕。燕王盧綰反、入匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、椎結蠻夷服而東走出塞、度浿水、居秦故空地上下障、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡在者王之、都王險。
内容は史記と同一だが、史記は「鄣塞」「上下鄣」、注記「地理志では楽浪郡の有雲鄣のこと」とあるが、漢書は「築障」「上下障」としている。障は「障壁=長城」であり、筆者も長城のことだと考え、満は長城の関所を出入したとした。
また、漢書は浿水を「楽浪の浿水県」、史記は「地理志では浿水の東に出れば塞(長城)外、西南に至り、楽浪の西から海に入る」と注記がある。現在の大同江のことである。
満は、燕の滅亡で遼東郡の統治体制が乱れ、統治者不在となった清川江と大同江の狭間に拠点を置き、そこから長城を出入して、燕に従属していた真番や朝鮮などの蛮夷、および燕や斉の流民(異民族)などを結集して、その王になったのだろう。・・・<続きは以下をクリックしてください>
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これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.