古朝鮮の歴史 - 燕と古朝鮮^^
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/03 23:31 投稿番号: [48637 / 73791]
投稿者:直子
万里長城(燕長城)
前漢時代に朝鮮四郡を設置されるまでの時代を『古朝鮮』といい、古朝鮮には「檀君朝鮮」「箕子朝鮮」「衛氏朝鮮」という三つの朝鮮があったとされる。通説では衛氏朝鮮以外は伝説上の国家と解されている。ただし、韓国の歴史教科書では歴史上の史実として扱っており、神話だと断じるのは、朝鮮半島の歴史を歪める陰謀だと言われそうだ。
古朝鮮とは具体的にどの地域にあったのかを考察するには、中原諸国によって構築された長城の歴史、特に朝鮮が何度も登場する遼東長城の歴史を追ってみよう。
『万里の長城』
春秋時代から戦国時代にかけて中原諸国が各々に土塁の障壁(長城)を築いた。
これらは隣国からの侵入を防ぐためだが、これとは別に、後世の『万里の長城』の原型となる異民族対策として築かれた長城がある。北方の匈奴に備えた「趙長城」、東胡に備えた「燕長城」、西方の氐(てい)や羌(きょう)に備えた「秦長城」である。
一説には、鉄器文化を発展させた中原諸国が、古代から中原周辺にいた異民族を辺境の地に追い払い、彼らが故地に復帰できないように長城を築いたのだという。
構築の理由は別として、この当時の長城は、騎馬で飛び越えられない程度の規模の土壁でしかなく、騎馬戦に長じた胡族に対応するだけのもので、現存する明時代の万里の長城とは位置も構造も規模ともに大きく異なる。
『通典』東夷上
周封殷之太師之國。太師教以禮義、田蠶、作八條之教、無門戶之閉、而人不為盜。其後四十餘代、至戰國時、朝鮮侯亦僭稱王。始全燕時嘗略屬焉、為置吏、築障塞。秦滅燕、屬遼東外徼。秦遼東郡、今安東府之東地。
周は殷の太師(箕子のこと)を、この国に封じる。太師は礼儀、農業を教え、八條の教えを作る。門戸を閉めなくても族人は盗みをしない。
その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称。燕は全盛期の初めに(朝鮮を)侵略して属国とし、統治官を置いて障壁(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は、今の安東府の東の地である。
燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に滅亡するまで約八百年続いた国家。戦国時代には「戦国七雄」の一国とされる大国だが、建国当初から戦国時代までの国情については中国の史籍にも記されていない。
燕は北方から中原の通路にあたる現在の河北省を領域としたことから、延々と異民族との攻防を繰り返していたため、中原諸国との通交がなく、国情が伝わらなかったと思われる。
その燕が「朝鮮を属国とした」とあることから、遠隔地の他国を属国にすることは常識的にありえない。従って、燕の近隣にいたものと考える。では、どの辺りにいたのだろう。
『史記』蘇秦列伝
燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある。
燕の本拠は河北省北部、その東に朝鮮と遼東(遼河の東部)があるとすれば、記載順序からすれば、朝鮮は遼東より西側、すなわち遼西(遼河の西部)だとなる。
本来、遼西地方は胡族(古代トルコ系遊牧民族)の山戎(さんじゅう)が領域としているはずだが、紀元前475年に趙に敗戦して以来、衰弱しており、すでに遼西から追われ、東胡に亡命していたのかもしれない。ただし、林胡・楼煩・東胡は「三胡」と呼ばれるが、燕の北にいたのは東胡であり、林胡と楼煩は黄河を間にして、蒙古自治区側に林胡、山西省側に楼煩がいた。従って、燕の西の間違いだと推察する。
中国の正史は箕子朝鮮の詳細を伝えておらず、朝鮮は古代の辺境を意味する呼称ではないかとする説もあるが、上記の通典に「そこに長城を築いた」と記されていることから、当時の燕が遼東に設けた「遼東長城」の詳細が分かれば、朝鮮の領域も判明するはず。ただし、歴代王朝が長城の修築増築をしており、長城の東端の位置が時代によって異なることに留意が必要である。・・・<続きは以下をクリック>
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen3-chyozho.htm
万里長城(燕長城)
前漢時代に朝鮮四郡を設置されるまでの時代を『古朝鮮』といい、古朝鮮には「檀君朝鮮」「箕子朝鮮」「衛氏朝鮮」という三つの朝鮮があったとされる。通説では衛氏朝鮮以外は伝説上の国家と解されている。ただし、韓国の歴史教科書では歴史上の史実として扱っており、神話だと断じるのは、朝鮮半島の歴史を歪める陰謀だと言われそうだ。
古朝鮮とは具体的にどの地域にあったのかを考察するには、中原諸国によって構築された長城の歴史、特に朝鮮が何度も登場する遼東長城の歴史を追ってみよう。
『万里の長城』
春秋時代から戦国時代にかけて中原諸国が各々に土塁の障壁(長城)を築いた。
これらは隣国からの侵入を防ぐためだが、これとは別に、後世の『万里の長城』の原型となる異民族対策として築かれた長城がある。北方の匈奴に備えた「趙長城」、東胡に備えた「燕長城」、西方の氐(てい)や羌(きょう)に備えた「秦長城」である。
一説には、鉄器文化を発展させた中原諸国が、古代から中原周辺にいた異民族を辺境の地に追い払い、彼らが故地に復帰できないように長城を築いたのだという。
構築の理由は別として、この当時の長城は、騎馬で飛び越えられない程度の規模の土壁でしかなく、騎馬戦に長じた胡族に対応するだけのもので、現存する明時代の万里の長城とは位置も構造も規模ともに大きく異なる。
『通典』東夷上
周封殷之太師之國。太師教以禮義、田蠶、作八條之教、無門戶之閉、而人不為盜。其後四十餘代、至戰國時、朝鮮侯亦僭稱王。始全燕時嘗略屬焉、為置吏、築障塞。秦滅燕、屬遼東外徼。秦遼東郡、今安東府之東地。
周は殷の太師(箕子のこと)を、この国に封じる。太師は礼儀、農業を教え、八條の教えを作る。門戸を閉めなくても族人は盗みをしない。
その後、四十余代、戦国時代に至って朝鮮侯も王を僭称。燕は全盛期の初めに(朝鮮を)侵略して属国とし、統治官を置いて障壁(燕長城)を築いた。秦が燕を滅ぼして遼東の外徼(外境=異民族)を帰属させた。秦の遼東郡は、今の安東府の東の地である。
燕は周王朝の元勲である召公奭(せき)が紀元前11世紀に封じられ、紀元前222年に滅亡するまで約八百年続いた国家。戦国時代には「戦国七雄」の一国とされる大国だが、建国当初から戦国時代までの国情については中国の史籍にも記されていない。
燕は北方から中原の通路にあたる現在の河北省を領域としたことから、延々と異民族との攻防を繰り返していたため、中原諸国との通交がなく、国情が伝わらなかったと思われる。
その燕が「朝鮮を属国とした」とあることから、遠隔地の他国を属国にすることは常識的にありえない。従って、燕の近隣にいたものと考える。では、どの辺りにいたのだろう。
『史記』蘇秦列伝
燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある。
燕の本拠は河北省北部、その東に朝鮮と遼東(遼河の東部)があるとすれば、記載順序からすれば、朝鮮は遼東より西側、すなわち遼西(遼河の西部)だとなる。
本来、遼西地方は胡族(古代トルコ系遊牧民族)の山戎(さんじゅう)が領域としているはずだが、紀元前475年に趙に敗戦して以来、衰弱しており、すでに遼西から追われ、東胡に亡命していたのかもしれない。ただし、林胡・楼煩・東胡は「三胡」と呼ばれるが、燕の北にいたのは東胡であり、林胡と楼煩は黄河を間にして、蒙古自治区側に林胡、山西省側に楼煩がいた。従って、燕の西の間違いだと推察する。
中国の正史は箕子朝鮮の詳細を伝えておらず、朝鮮は古代の辺境を意味する呼称ではないかとする説もあるが、上記の通典に「そこに長城を築いた」と記されていることから、当時の燕が遼東に設けた「遼東長城」の詳細が分かれば、朝鮮の領域も判明するはず。ただし、歴代王朝が長城の修築増築をしており、長城の東端の位置が時代によって異なることに留意が必要である。・・・<続きは以下をクリック>
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これは メッセージ 1 (may7idaho さん)への返信です.