古朝鮮の歴史 - 檀君朝鮮3(完)
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/03 23:08 投稿番号: [48634 / 73791]
投稿者:直子
『三国遺事』
13世紀末、高麗僧の普覚国尊一然(1206−1289年)が撰した歴史書。
朝鮮半島では三国史記(1145年)に次いで古い歴史書とされる。高句麗、百済、新羅の三国の遺事を採録したもので、その関連事項については、高麗の中期までの事実を符説している。
一然は、三国史記の編纂方針に不満を持っており、三国史記からこぼれ落ちた説話などをかき集め整理したものを三国遺事と命名して書き記したようだ。三国史記を日本書紀に例えるなら、三国遺事は古事記に相当するものとされている。
なぜか一然の生前には刊行されず、弟子の無極(1251−1322)が補録して『無極記』と署名して出版したが、檀君説話から始まって楽浪国・扶余・勃海・靺鞨・黒水女真・三国の説話遺聞を収録しており、檀君伝説はこの書によって初めて紹介されたもので,駕洛国記も現在では本書によってしか窺い知ることができない。荒唐無稽な説話も多いが,新羅時代の社会的記述が多く,また同時代史的な面もあり、当時は存在した史料史籍もかなり用いているはずで、朝鮮古代史研究での最重要史書と評価されている。
三国遺事が著された当時の高麗は,モンゴル民族の元王朝の圧政下にありながらも民族意識が高揚し,さらに大義名分論が強調された時代であり,このような背景のもとに檀君伝説が形成されたもので、李氏朝鮮王朝の国号採用にも有力な根拠とされた。ちなみに、1961年まで韓国では檀君紀元(西暦に2333年を加算)が使われていた。
『檀君朝鮮』桓檀(がんだん)古記
一世天皇の倍達桓雄が天下を平定して、都を「神市」に定める。二世居佛理桓雄。三世右耶古桓雄。四世慕土羅桓雄。五世太虞儀桓雄。六世多儀發桓雄。
六世多儀發桓雄の末弟を大蔯といい、伏犠と号した。伏犠は神市より出て、雨師の職を世襲し、後に青邱、楽浪を経て、陳に移り、燧人氏・有巣氏と並び、西土に号を立てる。
後裔は、分かれて風山に居住し、風を姓とする。観、任、己、庖、理、似、彭、の八氏となる。今は山西の済水に義族の旧居住地があり、任、宿、須、句、須臾に分かれる。
唐堯の徳は衰え、虞舜に国を譲る。虞舜は司空の夏禹を登用して成功する。
檀君王倹は太子の扶婁を遣わし、招いて塗山に会する。虞舜の諸侯は辰韓に四度朝貢した。檀君王倹は、蚩尤の後孫の蚩頭男を番として険讀(けんとく=遼寧省盤山県)に官府(役所)を立て王倹城と称した。檀君王倹は蚩頭男の勇智を称えた。
庚子の年、遼中(遼寧省瀋道)に十二城を築いた。蚩頭男の子の琅邪は、可汗城を改築し琅邪城と称した。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen1-dankun.htm↑
これで檀君神話がだいたいわかりました^^
これは メッセージ 48632 (k_g_y_007_naoko さん)への返信です.
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