古代百済との関係 2/2
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/02 15:34 投稿番号: [48556 / 73791]
投稿者:チー
その4年後、
百済へ派遣された中国の技術者集団たちを、百済は倭に譲渡するわけ。
『日本書紀』欽明六年(545)九月条
《欽明天皇六年(五四五)九月》秋九月。
百済遣中部護徳菩提等、使于任那。贈呉財於日本府臣及諸旱岐、各有差。
百済王が「呉」の財を「任那日本府」の臣や諸々の王に贈った。。。。と書いている。
五経博士とは百済人たちかと思っていたが、中国人たちだったのね。
乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。
また、百済王が上表して講礼博士を梁に請うたので、
梁からは陸という学者を遣わしたということが『陳書』の陸伝にみえている。
この王も、おそらく聖王であろう。
陳書卷三十三 列傳第二十七 儒林
陸少習崔靈恩《三禮義宗》,梁世百濟國表求講禮博士,詔令行。
http://www.angelibrary.com/oldies/chenshu/033.htm
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/09chenshu/t-033.htm
一方、聖王の時代にも日本は、欽明天皇一四年(553)、
医・易・歴などの博士らの「番に依りて上下」すべきことを百済に伝え、翌年2月、
五経博士・王柳貴を固徳 (百済の官位)馬丁安に代える。
僧曇慧ら九人を僧道深ら七人に代える。
別に勅を奉りて、易博士・施徳王道良、歴博士・固徳王保孫、医博士・奈率王有悛陀、
採薬師・施徳潘量豊、固徳丁有陀、楽人・施徳三斤、季徳己麻次、季徳進奴、対徳進陀を貢る。
皆請(もうす)に依りて代わるなり。
<欽明天皇15年(554)年>
《欽明天皇十五年(五五四)二月》二月。
代前番奈率東城子言。五経博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇恵等九人代僧道深等七人。
別奉勅、貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。医博士奈率王有悛陀。採薬師施徳潘量豊。
固徳丁有陀。楽人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。対徳進陀。皆依請代之。
2月、百済から馬丁安の交代要員として新たに王柳貴の派遣を打診。
という記事がある。
これもまた、百済が高句麗に攻められて日本に援軍を乞うたときのことである。
欽明天皇はそれにこたえるかわりに、五経博士の交替に兼ねて、易・歴・医の専門家や、薬草にくわしい採薬師や楽人らの貢上をとりつけたわけである。
またこの記事を見ると仏教の僧侶派遣についても、このころには百済と日本のあいだに、交替制がとられていたことがわかる。
雄略期(4世紀中〜末頃?)の大和朝廷が大陸にもとめたものとしては窯業や織物、武器などの生産技術に象徴される物質文明が伝えられている。
しかし、継体・欽明期にはさらにすすんで、儒教や仏教、易や歴にあらわされるような高度な精神文明への意欲も、たかまっていたといってよいであろう。
継体―欽明期に国の歴史を顧みる意味で「帝紀」や「旧辞」は述作されたが、その背景にはこうした知的水準のたかまりのあったことも考慮に入れてよいであろう。
http://toron.chu.jp/kodai/nicchou/hakase.html
梁書卷第五十四
列傳第四十八 諸夷
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/08liangshu/t-054.htm
陳書卷三十三
列傳第二十七 儒林
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/09chenshu/t-033.htm
ということでしたのね、pokosi2000 さん^^
でも、梁書・陳書の読解は、私には難しいのです。漢文のお時間は苦手でしたから..^^;
では、失礼いたします^^;
その4年後、
百済へ派遣された中国の技術者集団たちを、百済は倭に譲渡するわけ。
『日本書紀』欽明六年(545)九月条
《欽明天皇六年(五四五)九月》秋九月。
百済遣中部護徳菩提等、使于任那。贈呉財於日本府臣及諸旱岐、各有差。
百済王が「呉」の財を「任那日本府」の臣や諸々の王に贈った。。。。と書いている。
五経博士とは百済人たちかと思っていたが、中国人たちだったのね。
乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。
また、百済王が上表して講礼博士を梁に請うたので、
梁からは陸という学者を遣わしたということが『陳書』の陸伝にみえている。
この王も、おそらく聖王であろう。
陳書卷三十三 列傳第二十七 儒林
陸少習崔靈恩《三禮義宗》,梁世百濟國表求講禮博士,詔令行。
http://www.angelibrary.com/oldies/chenshu/033.htm
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/09chenshu/t-033.htm
一方、聖王の時代にも日本は、欽明天皇一四年(553)、
医・易・歴などの博士らの「番に依りて上下」すべきことを百済に伝え、翌年2月、
五経博士・王柳貴を固徳 (百済の官位)馬丁安に代える。
僧曇慧ら九人を僧道深ら七人に代える。
別に勅を奉りて、易博士・施徳王道良、歴博士・固徳王保孫、医博士・奈率王有悛陀、
採薬師・施徳潘量豊、固徳丁有陀、楽人・施徳三斤、季徳己麻次、季徳進奴、対徳進陀を貢る。
皆請(もうす)に依りて代わるなり。
<欽明天皇15年(554)年>
《欽明天皇十五年(五五四)二月》二月。
代前番奈率東城子言。五経博士王柳貴代固徳馬丁安。僧曇恵等九人代僧道深等七人。
別奉勅、貢易博士施徳王道良。暦博士固徳王保孫。医博士奈率王有悛陀。採薬師施徳潘量豊。
固徳丁有陀。楽人施徳三斤。季徳己麻次。季徳進奴。対徳進陀。皆依請代之。
2月、百済から馬丁安の交代要員として新たに王柳貴の派遣を打診。
という記事がある。
これもまた、百済が高句麗に攻められて日本に援軍を乞うたときのことである。
欽明天皇はそれにこたえるかわりに、五経博士の交替に兼ねて、易・歴・医の専門家や、薬草にくわしい採薬師や楽人らの貢上をとりつけたわけである。
またこの記事を見ると仏教の僧侶派遣についても、このころには百済と日本のあいだに、交替制がとられていたことがわかる。
雄略期(4世紀中〜末頃?)の大和朝廷が大陸にもとめたものとしては窯業や織物、武器などの生産技術に象徴される物質文明が伝えられている。
しかし、継体・欽明期にはさらにすすんで、儒教や仏教、易や歴にあらわされるような高度な精神文明への意欲も、たかまっていたといってよいであろう。
継体―欽明期に国の歴史を顧みる意味で「帝紀」や「旧辞」は述作されたが、その背景にはこうした知的水準のたかまりのあったことも考慮に入れてよいであろう。
http://toron.chu.jp/kodai/nicchou/hakase.html
梁書卷第五十四
列傳第四十八 諸夷
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/08liangshu/t-054.htm
陳書卷三十三
列傳第二十七 儒林
http://www.hoolulu.com/zh/25shi/09chenshu/t-033.htm
ということでしたのね、pokosi2000 さん^^
でも、梁書・陳書の読解は、私には難しいのです。漢文のお時間は苦手でしたから..^^;
では、失礼いたします^^;
これは メッセージ 48555 (k_g_y_007_naoko さん)への返信です.