★★★日本のヒーロー・ヒロイン★★★

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Re: ★★★日本のヒーロー・ヒロイン★★★

投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/04/12 11:58 投稿番号: [59 / 65]
探してもなかったので、消滅したと
思っていた、まだ生きていた(笑)

そこで、戦国時代のヒーロー
真田幸村について、これも長いそう
なので2回に分けて

      九度山の虎

慶長五年、天下の状勢は俄かには緊迫し
石田三成と徳川家康の衝突は、避けられない
状況となった

大名諸将、何れに付くか   御家の存亡を
賭けて瀬戸際の選択を迫られていた

信州真田家も例外ではなかった

当主真田昌幸は、西軍に付く事を主張する

徳川勢とは、先年より因縁ありて
これに組するは、我が意にあらず

西方にて、御家の安泰を計るべし

真田と徳川は、これまで幾度と無く小競り
合いを繰り返しており   昌幸は徳川に
組みするのを良しとしなかった

対して嫡男信幸は、徳川に付くべく反論する

父上   天下の形勢は、既に徳川に
傾いております

治部殿を持ってしても、西方勝利は至難の業
何卒、御再考を

話し合いは幾度となく繰り返された、しかし
結論は出ず互いに信ずる道を、進む事に
なったのである

昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に
親兄弟、敵味方に分かれる事になった

尤もこの信幸の判断が、結果的に真田家を
幕末まで存続させる事になった

(信州松代藩)

慶長五年九月、徳川軍は二手に分かれて
進軍を開始する、家康は東海道を秀忠は
本隊三万八千を率いて中山道を進んだ

中山道の秀忠を待ち受けていたのが、信州
上田城の真田親子であった

軍勢は僅か二千五百、秀忠軍の十分の一にも
満たない

しかし自在の戦略は秀忠軍を翻弄し   一刻も
争う行軍は十日余りも、足止めを余儀なく
された

この為秀忠は、肝心の関が原に間に合わず
後々家康から激しい叱責を受けた
万一西軍が勝利すれば、第一の功労者は
真田親子であった

その関が原はあっけない幕切れとなった
西軍は総崩れと成り三成は戦死   昌幸
幸村も捕らえられ、紀州九度山に蟄居の
身となった

九度山に預かりの身となってより十五年
幸村は次第に老いていく己が、疎ましかった

姉に宛てた書状で

我既に齢(よわい)四十七、歯は欠け
髪は白く弱き身となり申した

もやは、朽ち果てるを待つばかり

武士の面目も叶わず、捕われ人で
九度山に、屍(しかばね)を晒すのみ

我が定めを嘆く幸村に、ある時一通の書状が
届けられた、豊臣秀頼からの勧誘状である

此度、関東勢と一戦交えるものなり
貴殿の御高名、天下に知らぬ者なし

大阪城に入城されたし、委細はその後(のち)

天は我を見放さなかった、幸村は心躍らせ
勇躍大阪城に向かって行った

その頃、天下は風雲急を告げていた

家康は豊臣家が建立した、方広寺の鐘に
刻まれた国家安康の文字が、家康を呪った
物だとして、強硬な態度に出る

明らかにこれは口実であった、豊臣家の存在が
邪魔になった家康が、豊臣家滅亡を決意した
のである

もやはこれまで、淀君始め、重臣達は諸国の
大名に参陣を呼びかける
しかし、承諾する大名は誰一人としていなかった

既に徳川政権は、磐石となっておりこれに
背くのは自殺行為に近かった

やむなく、諸国に溢れる牢人に声を掛けた
のである

これに呼応して、天下に名の知れた武将達が
続々大阪城に入る   後藤又兵衛、長宗我部盛親
塙団右衛門

幸村もそんな一人であった、雌伏十五年
思えば長く辛い年月であった

幸村は、一人瞑想に耽る

秀頼様の大恩、如何にして報いん
我、凡庸にして、思い及ばず

大阪城に入った幸村は、知略を尽くして策を
献上する、しかし秀頼側近の重臣達は聞き
入れず、用いられる事は滅多になかった
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