明治9(1876)年、日朝修好条規が結ばれる
投稿者: okinawatorafu2005 投稿日時: 2006/02/02 03:23 投稿番号: [5873 / 9207]
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h17/jog392.html
■4.大韓帝国は竹島を領土地図に描いていなかった■
明治9(1876)年、日朝修好条規が結ばれると、日本漁民によ
る朝鮮近海での漁業が活発になった。農林水産資源の宝庫だっ
た鬱陵島にも、島根県や鳥取県の人びとが移り住み、商業や農
漁業に従事するようになった。
朝鮮政府は江戸幕府の渡海禁止措置を引き合いに出して抗議
し、明治政府もこれを受け入れて、鬱陵島への渡海を改めて禁
じ、日本人住人254名を連れ戻した。
朝鮮の高宗は翌年、鬱陵島近辺の地理と産物の詳細な現地調
査を命じた。その報告書が『鬱陵島検察使日記』や『鬱陵島外
図』として提出されたが、それには今日の竹島は記述されてい
ない。鬱陵島の最高峰から四方を眺めたが、「一点の島嶼」も
見えなかった、と報告している。
1898年に製作された『大韓與地図』にも、また1899年に大韓
帝国の学部編集局が製作した『大韓全図』にも、描かれている
のは鬱陵島までで、竹島はない。
日韓の歴史的な領有権争いはあくまで鬱陵島に関するもので、
それよりもはるかに日本に近い竹島については、問題にもされ
ていなかったのである。
これは メッセージ 5838 (okinawatorafu2005 さん)への返信です.
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