対馬守護代-宗氏
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/04/10 09:47 投稿番号: [4559 / 9207]
ふ〜ん、貿易をしただけなのに、韓国の領土に決めてしまうとはね。
韓国は、恐ろしい国だ。あ〜怖い、怖い。
史料上では宗氏は南北朝争乱期に宗盛国が初出するが、盛国以前の津島守護代は不明である。盛国は妙意と号して守護武藤少弐貞経より地頭代という立場におかれていた。いわゆる守護代である。宗氏は系図上では重尚−助国−盛明、そして盛国となる。助国の代、文永十一年
(1274)に蒙古が来襲、世にいう文永の役になった。助国は対馬小茂田で元・高麗の軍勢を迎かえ撃ったが討死。
つぎの盛明の代には弘安の役となり、ふたたび高麗の金方慶が率いる元軍が対馬に上陸し、盛明はこれと戦った。
その後も少弐氏が対馬守護であったが、在島した証はない。そして、宗盛明・経茂・頼茂が守護代を務めた。観応の掾乱で守護頼尚は足利直冬に与し室町幕府の追討を受けた。当然、少弐氏相伝の対馬守護職は剥奪されたが、乱後、守護に再任されている。
少弐冬資の時代には、南朝方が補任した守護として少弐頼澄の存在がみられる。やがて、鎮西探題として今川了俊が九州に下向してくると、少弐氏にかわり今川氏が対馬守護になったようだ。
了俊の探題解任後、宗澄茂が守護代から守護に昇格した。
以後、宗氏が少弐氏に代って対馬守護職に就任した。
応永五年(1398)宗頼茂は志多賀に館を移し、さらに同十五年次の貞茂は佐賀に移住して居所としたが、貞国のとき、文明十八年(1486)館を巌原の中村に移し、以降、宗氏代々の居所となった。
対馬は山地が多く耕地が少ない地であったため食糧の自給ができなかったが、朝鮮との貿易による利得が多く、朝鮮の好意で有利な貿易権をもち、宗氏は外交面での権威を高めていったのである。
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これは メッセージ 4557 (single_article さん)への返信です.
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