ソウル三田渡碑に書かれた事
投稿者: shuji5175 投稿日時: 2005/03/23 20:07 投稿番号: [2487 / 9207]
ソウル三田渡碑(大清皇帝功徳碑)
この石碑は清の2代皇帝ホンタイジが朝鮮を征服後建立したもので、韓国では「恥辱碑」と呼ばれている。
以下の内容↓
大清崇徳元年、冬一二月、
寛温仁聖皇帝(豊かな恩恵と、神聖で思いやり深い清の大宗)は、
朝鮮が紐帯関係を破ったために大いに怒り、武力を行使して、東方(朝鮮)へ進撃した。
国内(朝鮮)に入ったら、対抗する者は全くなかった。
我が寡君は南漢山城にあったが、小春日和に氷坂を踏んで、
日出づる太陽を待つような憂憂の日を五〇日余り送る間に、
各地方の軍隊は相次いで崩壊し、西北にあった軍隊は峡谷にはまって動けず、城内の食糧も尽きた。
もし、大兵をもって城を攻撃されたら、
冷たい風によって秋の落ち葉が飛ぶように、
あるいは大火が鴨の毛を燃やすように、ひとたまりもない運命にあった。
しかし皇帝は、
出来るだけ殺生をしないことこそ武勇であり、
徳を優先させるという勅命を公布して、諭旨した。
則ち「降伏したら、朕はお前ら(仁祖)を生かすが、抵抗したら全員を虐殺する」と仰せられた。
寡君はやむをえず、文武諸臣を集めて、
「私が至らなかったために、
自ら天による懲罰を招来し、民百姓を死の間際に追いやった。
その罪は、。私一人にある。
それにも関わらず、皇帝は自重され、屠戮(みな殺し)する事を控えられた。
このような有難い論旨に接し、慎みてその意を頂き、宗廟社稷と我が生霊を保全するほかない。」
したがって、数十騎を先頭に立てて、清の軍営前に至り、罪を咎めるように請うた。
ところが、皇帝は礼を持って応対され、恩恵を持って慰労しながら、礼物を下賜された。
礼が終了すると、寡君(仁祖)を都城に帰らせて、
軍を撤収し、離散した百姓を慰め、農耕を勧奨した。
人々が古巣に帰れたことは、素晴らしい幸福であった。
我らの小国が大国(清)に大して罪を犯してから久しい。
かつて姜弘立(カンホンイブ)が明の救援を行ったところ、敗れて捕虜になった。
その時に、太祖武皇帝(ヌルハチ)は弘立ら数名だけを残して、
残りの兵士を全員帰国させたが、その恩義といえば、広大なものであった。
丁卯年(一六二七年)、
現皇帝(清の大宗)が諸将兵に命じて東国(朝鮮)に入ると、朝鮮は使臣を送って和親を請うた。
皇帝は許して兄弟国と見なしてくれたために、この国が無事でいられ、弘立も帰ってきた。
不幸にも(朝鮮の朝廷が)流言を信じて、
混乱の原因を作り、辺臣(辺境を守る兵士)をして警戒に当たらせ、
大国に尽くすべき礼をわきまえず、その宣戦教書が(清の)使臣の手中に入った。
ところが皇帝は、それでも寛大に扱われ、
朝鮮へ使臣を送って、親しく論旨を伝達されたのにもかかわらず、
朝鮮がそれを受け付けることを断ったのは、小国君臣の罪を一層思いものとした。
皇帝は大軍を率いて、南漢山城を包囲し、
江都(ソウル)をたちまち陥落させ、嬪宮(王の妾達)、王子、大臣などの家族が、
皆捕虜となったが、皇帝は諸将に対し、危害を加えないように命じられ、侍従官員と内侍に眼を配るように求められた。
このように恩恵を施したために、
小国の君臣と捕虜であった家族達が、再び以前と同じく、
冬が春に代わり、干魃が雨によって潤うように、その身を安んずる事ができた。
国は滅亡の瀬戸際から救われ、宗廟社職が崩壊から再生した。
こうして東国(朝鮮)の数千里の国土が全て蘇る徳を蒙ったことは、
古代からの書籍にも稀にしか見られないことである。
ああ、何と立派なことか。
三田渡の南側に、皇帝が駐蹕(ちゅうひつ=行幸中にとどまること)された所に、祭壇場がある。
我が君は水部(工人)に命じて、祭壇を増築し、石を磨き、碑を立てて、
永遠に遺して、皇帝の功徳が、天地調和するのと同じ事であることを顕した。
我々小国は、代々末永く、この徳を仰ぐのみならず、
どのような国であっても、服従しなければならない大国の仁義と、
勇猛なる義理が、この根本になっていることを、深く心に刻むものである。(後略)
この石碑は清の2代皇帝ホンタイジが朝鮮を征服後建立したもので、韓国では「恥辱碑」と呼ばれている。
以下の内容↓
大清崇徳元年、冬一二月、
寛温仁聖皇帝(豊かな恩恵と、神聖で思いやり深い清の大宗)は、
朝鮮が紐帯関係を破ったために大いに怒り、武力を行使して、東方(朝鮮)へ進撃した。
国内(朝鮮)に入ったら、対抗する者は全くなかった。
我が寡君は南漢山城にあったが、小春日和に氷坂を踏んで、
日出づる太陽を待つような憂憂の日を五〇日余り送る間に、
各地方の軍隊は相次いで崩壊し、西北にあった軍隊は峡谷にはまって動けず、城内の食糧も尽きた。
もし、大兵をもって城を攻撃されたら、
冷たい風によって秋の落ち葉が飛ぶように、
あるいは大火が鴨の毛を燃やすように、ひとたまりもない運命にあった。
しかし皇帝は、
出来るだけ殺生をしないことこそ武勇であり、
徳を優先させるという勅命を公布して、諭旨した。
則ち「降伏したら、朕はお前ら(仁祖)を生かすが、抵抗したら全員を虐殺する」と仰せられた。
寡君はやむをえず、文武諸臣を集めて、
「私が至らなかったために、
自ら天による懲罰を招来し、民百姓を死の間際に追いやった。
その罪は、。私一人にある。
それにも関わらず、皇帝は自重され、屠戮(みな殺し)する事を控えられた。
このような有難い論旨に接し、慎みてその意を頂き、宗廟社稷と我が生霊を保全するほかない。」
したがって、数十騎を先頭に立てて、清の軍営前に至り、罪を咎めるように請うた。
ところが、皇帝は礼を持って応対され、恩恵を持って慰労しながら、礼物を下賜された。
礼が終了すると、寡君(仁祖)を都城に帰らせて、
軍を撤収し、離散した百姓を慰め、農耕を勧奨した。
人々が古巣に帰れたことは、素晴らしい幸福であった。
我らの小国が大国(清)に大して罪を犯してから久しい。
かつて姜弘立(カンホンイブ)が明の救援を行ったところ、敗れて捕虜になった。
その時に、太祖武皇帝(ヌルハチ)は弘立ら数名だけを残して、
残りの兵士を全員帰国させたが、その恩義といえば、広大なものであった。
丁卯年(一六二七年)、
現皇帝(清の大宗)が諸将兵に命じて東国(朝鮮)に入ると、朝鮮は使臣を送って和親を請うた。
皇帝は許して兄弟国と見なしてくれたために、この国が無事でいられ、弘立も帰ってきた。
不幸にも(朝鮮の朝廷が)流言を信じて、
混乱の原因を作り、辺臣(辺境を守る兵士)をして警戒に当たらせ、
大国に尽くすべき礼をわきまえず、その宣戦教書が(清の)使臣の手中に入った。
ところが皇帝は、それでも寛大に扱われ、
朝鮮へ使臣を送って、親しく論旨を伝達されたのにもかかわらず、
朝鮮がそれを受け付けることを断ったのは、小国君臣の罪を一層思いものとした。
皇帝は大軍を率いて、南漢山城を包囲し、
江都(ソウル)をたちまち陥落させ、嬪宮(王の妾達)、王子、大臣などの家族が、
皆捕虜となったが、皇帝は諸将に対し、危害を加えないように命じられ、侍従官員と内侍に眼を配るように求められた。
このように恩恵を施したために、
小国の君臣と捕虜であった家族達が、再び以前と同じく、
冬が春に代わり、干魃が雨によって潤うように、その身を安んずる事ができた。
国は滅亡の瀬戸際から救われ、宗廟社職が崩壊から再生した。
こうして東国(朝鮮)の数千里の国土が全て蘇る徳を蒙ったことは、
古代からの書籍にも稀にしか見られないことである。
ああ、何と立派なことか。
三田渡の南側に、皇帝が駐蹕(ちゅうひつ=行幸中にとどまること)された所に、祭壇場がある。
我が君は水部(工人)に命じて、祭壇を増築し、石を磨き、碑を立てて、
永遠に遺して、皇帝の功徳が、天地調和するのと同じ事であることを顕した。
我々小国は、代々末永く、この徳を仰ぐのみならず、
どのような国であっても、服従しなければならない大国の仁義と、
勇猛なる義理が、この根本になっていることを、深く心に刻むものである。(後略)
これは メッセージ 2472 (akanbei_21c さん)への返信です.
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