anywhere you want to go 様へ 1,
投稿者: pjb6111 投稿日時: 2003/06/19 03:02 投稿番号: [1831 / 8733]
毎度
私の意見を詳細に吟味下さり有り難うございます。恐縮しております。
暗黙の了解的には 大体よろしいかと思われますが 少々訂正・付け加えさせていただきます。
◆ 観念の構図
・はるかに高い比率
>客観的理性には
→客観的理性(≒言語構造化された理性)
通常我々が客観的理性だと感じている殆どのものは、過去に定義付けられた「ものさし」で現在のリアリティを分断する事によって理解し、かつ同時に「影」を創出してしまいます。この理性では全体を把握するのは不可能です。条件付けされた部分の認識には有効な道具ですが、もはや時代遅れの産物です。この道具を有効に使いこなすには右脳による直観的理性による補障が必要となります。多くの出来損ないの官僚を輩出した東京大学の、教養学部が1993年頃から公にし始めた、閉じた知から開かれた智への転換、とはこういうものであり、本来誰でもが持っているものであります。
・地理的風土的環境
>地理的風土的環境及び宗教的・民族的
・社会的・家族的等伝統的な側面によって、半ば強制的に、従う事を受け入れてきた自分自身。
即ち個人内における対立の半分は両親を含めた環境の責任、そして残りの半分は、あんなにも反抗的であったのに、結局受け入れる事を選択してきた自分自身の責任なのであります。そして時代的必然性や「影」の「投影」の可能性をかんがみて、自分自身を内省して観ると殆どの対立は減少ないし解消するわけです。
・副作用
>通常我々の認識における「社会的妥当性」はない
→〜の認識による「社会的妥当性」の全体的存在としての正当性及び行為的妥当性はない。
・微々たる比率
>主体的側面、無意識的に存在している本当の自分。
→主体的(と感じられる)側面(つまり偽り)、無意識的に存在している(と思い込んでいる)部分でありかつ同時に全体であるところの本当の自分。
この主体的(自己)本当の自分(超自己=私の用語)が又やっかいなものでありまして、例えばトラパ心理学の先駆的存在でありますA・マズロ−の「自己実現」「自己超越」などの概念自体の中にも矛盾が感じられますように、我々は部分的であると同時に全体的な存在でもあるわけです。それは又ア−トマン≒ブラフマン的理解として知られるものでもあるのですが、それぞれの言語は宗教的・霊性的・民族的・社会的慣習・(古い)科学的伝統における前後の文節により,その指し示す意味が大きく変ることがあります。
そこで私は自分自身の禅体験をふまえ、無意識領域の一人の探求者としてその説明責任を果たす為私家版ではありますが
「超自己:意識のレベルと方向性」を著わしました。まだ在庫が多少ありますので、このトピをごらんの希望者にお頒け致しますので、メ−ルでお申し込みください。
Eメ−ル purejazz@k9.dion.ne.jp
(できましたら込みこみの¥1000でお願いしたいのですが、チト高いので何か付録をつけます)
>・思考・感情・行為
→(主体的)思考・感情・行為及び〜
・副作用
>好き嫌いや快−不快原則〜
→自己保存本能や快−不快原則にのっとる為、好き嫌いは個人の自由だが組織(自我的)集団(自己的)になると排他的に自己補障的になりやすく妥当性のない対立や「影」の投影をおこしやすくなります。
なおこの高い・微々たる比率は、社会的および言語構造化された理性的(客観的)側面から見た場合であって、個人的およびイメ−ジ構造化された感性(主観的)側面から見た場合は比率が逆になる事をご承知おきください。
では今回はこの位で失礼致します。
暗黙の了解的には 大体よろしいかと思われますが 少々訂正・付け加えさせていただきます。
◆ 観念の構図
・はるかに高い比率
>客観的理性には
→客観的理性(≒言語構造化された理性)
通常我々が客観的理性だと感じている殆どのものは、過去に定義付けられた「ものさし」で現在のリアリティを分断する事によって理解し、かつ同時に「影」を創出してしまいます。この理性では全体を把握するのは不可能です。条件付けされた部分の認識には有効な道具ですが、もはや時代遅れの産物です。この道具を有効に使いこなすには右脳による直観的理性による補障が必要となります。多くの出来損ないの官僚を輩出した東京大学の、教養学部が1993年頃から公にし始めた、閉じた知から開かれた智への転換、とはこういうものであり、本来誰でもが持っているものであります。
・地理的風土的環境
>地理的風土的環境及び宗教的・民族的
・社会的・家族的等伝統的な側面によって、半ば強制的に、従う事を受け入れてきた自分自身。
即ち個人内における対立の半分は両親を含めた環境の責任、そして残りの半分は、あんなにも反抗的であったのに、結局受け入れる事を選択してきた自分自身の責任なのであります。そして時代的必然性や「影」の「投影」の可能性をかんがみて、自分自身を内省して観ると殆どの対立は減少ないし解消するわけです。
・副作用
>通常我々の認識における「社会的妥当性」はない
→〜の認識による「社会的妥当性」の全体的存在としての正当性及び行為的妥当性はない。
・微々たる比率
>主体的側面、無意識的に存在している本当の自分。
→主体的(と感じられる)側面(つまり偽り)、無意識的に存在している(と思い込んでいる)部分でありかつ同時に全体であるところの本当の自分。
この主体的(自己)本当の自分(超自己=私の用語)が又やっかいなものでありまして、例えばトラパ心理学の先駆的存在でありますA・マズロ−の「自己実現」「自己超越」などの概念自体の中にも矛盾が感じられますように、我々は部分的であると同時に全体的な存在でもあるわけです。それは又ア−トマン≒ブラフマン的理解として知られるものでもあるのですが、それぞれの言語は宗教的・霊性的・民族的・社会的慣習・(古い)科学的伝統における前後の文節により,その指し示す意味が大きく変ることがあります。
そこで私は自分自身の禅体験をふまえ、無意識領域の一人の探求者としてその説明責任を果たす為私家版ではありますが
「超自己:意識のレベルと方向性」を著わしました。まだ在庫が多少ありますので、このトピをごらんの希望者にお頒け致しますので、メ−ルでお申し込みください。
Eメ−ル purejazz@k9.dion.ne.jp
(できましたら込みこみの¥1000でお願いしたいのですが、チト高いので何か付録をつけます)
>・思考・感情・行為
→(主体的)思考・感情・行為及び〜
・副作用
>好き嫌いや快−不快原則〜
→自己保存本能や快−不快原則にのっとる為、好き嫌いは個人の自由だが組織(自我的)集団(自己的)になると排他的に自己補障的になりやすく妥当性のない対立や「影」の投影をおこしやすくなります。
なおこの高い・微々たる比率は、社会的および言語構造化された理性的(客観的)側面から見た場合であって、個人的およびイメ−ジ構造化された感性(主観的)側面から見た場合は比率が逆になる事をご承知おきください。
では今回はこの位で失礼致します。
これは メッセージ 1828 (anywhere_you_want_to_go さん)への返信です.
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