責任の所在
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2005/05/20 23:56 投稿番号: [9685 / 17759]
司馬遼太郎さんがご自身で、自分の気に入っている小説は何か?という問いに応えられていて、何個かの中に、「殉死」というものが有りました。
乃木さんのことを書いた短編ですが、多くは忘れましたが、彼の無能さゆえに死んでいった多くの軍人達の鎮魂歌のような印象を抱いています。
その悪意の無い、マイナスの意味での虐殺は、誰も責任をとることもなく、彼の殉死によって覆い隠され、美化され、語り継がれることになりました。
世に言う、「責任の有る地位」というものに立つ人は文字通り、責任の有る死生観を持つべきで、そのために、それなりの地位が用意され賃金が支払われているわけですから、ここを逃れることは出来ないはずです。
かつてのA級戦犯にしても、それぞれの言い訳はさまざまにできるだろうし、その裁判のずさんさは、「ゴボウを食べさせて死刑になった方がいる」ことを上げるまでもなく、極めて異常な状況のもとに偏った審判がおこなわれたわけだけれども、やはり、本来は、責任の有る立場だった人は、それぞれに応じた責任をとらなければならないのではないか?・・・と私個人としては考えるのです。
>つまり、民主主義や自由や人権は、「市民社会」が必要不可欠の条件なのだ。
>決して国家ではない。でも、このことが分かっていない人が実に多い。
「民主」主義ですもんねえ?
私は、頭のいい人が、国民の意を先回りして汲んで、国民の意図するところのままに、国民に弊害の無い政治を司るのであれば、たとえ結果的に間違えていたとしても、仕方がなかったと思えるようにしようとは思っているのです。
その時の国民の「意」というものは、しかし、国民の自尊心を汚すものであってはならないと考えるわけです。
東アジアの世界で「日本は、金のためにアメリカのケツをなめるバター犬である」などという評価を以前から甘んじてじっと堪えている日本人がいて、国益のためだとか言いながら国民をなだめすかしながら、私腹を肥やしながら日本の枠組みを作り上げた政治家なんか私は支持しません。
これは メッセージ 9630 (light_cavalryman さん)への返信です.
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