エクスターズ
投稿者: klekketi 投稿日時: 2003/01/17 01:51 投稿番号: [124 / 17759]
バタイユが供犠について、神の供犠というイメージを持ったとき、フレーザーの『金枝篇』が強い魅惑を持ったことは、当然と言えば当然である。ネミの森の祭司の殺害への問いを発端として、神の殺害の例を古今東西に渉猟するこの書物は、彼の関心にとって資料と例証の宝庫だったにちがいないからである。フレーザーはロバートソン・スミス同じくイギリス人であり、同時代者であり、後者の仕事を知っていたが、供犠についてはいくらか異なる見解を持っていたらしい。またトーテミスムについての論考もあり(『トーテミズムと族外婚』、一九一〇年)、それはフロイトの考察の典拠ともなっている。バタイユは『金枝篇』から多くを摂取しているが、理論的には必ずしも同調しているわけではなかった。『有用性の限界』(一九四〇年頃)には次のような部分がある。〈オクスフォード大学教授、ジェームズ・フレーザー卿は、人々が殺戮の儀式のうちに豊かな収穫を得るための方法を見たという考えを展開して見せた。フランスの社会学者たちは、供犠の儀礼が、人間の間に社会的絆を結び、集団の共同体的統一性の基礎となることを見出した。これらの解釈は、供犠の効果を明らかにする。しかし、何が、人間をして宗教的に同胞を殺害するよう仕向けるのかについては述べない〉t.7-p.264。フレーザーについてはさらに脚注で次のように加えている。〈この観点は、『金枝篇』の意味を奪うものではない。この書物は、供犠の豊かさ、広大さ、普遍性を示すと同時に、それらを季節のリズムに結びつけているという利点を持つ〉(同上)。
これは メッセージ 123 (klekketi さん)への返信です.
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