時衆道場
投稿者: klekketi 投稿日時: 2003/01/17 01:48 投稿番号: [121 / 17759]
# 阿部征寛 「中世武蔵国の時衆道場−遊行の拠点 ...
鎌倉期に浅草が取り沙汰されたことがある。それは源頼朝〔1147〜99.53歳〕の指揮に基づき「都市」建設を始めた時期のことで、京都の内裏に匹敵するといわれる鶴岡八幡宮の造営の件でであった。養和元年(一一八一)五月に材木座の元八幡宮を小林郷の北山へ新しく遷宮しようと計画され、相模国土肥郷(足下郡)を本貫とした土肥実平と同国懐島郷(高座郡)を本貫とする大庭景能〔?〜1210〕が造営の奉行に命じられ、建材の調達に従事した。その建材が由比ケ浜へ到着したのが六月末であった。建材の内訳は柱十三本と虹染二支であった。発議の日から約一か月半を要した。
翌月から造営に着工する予定であったところが造営の職人が「鎌倉中」に存在しないことがわかり、同月三日、「武蔵国浅草大工字郷司」を召び寄せ従事するよう、浅草を支配していた「沙汰人」に御書を遣わした。同八日には大工郷司が鎌倉へ来て、同廿日に至りようやく上棟式にこぎつけたのである(8)。この時期の鎌倉は公共施設・住宅の建設があいついだ。八幡宮遷宮の計画の在った五月のこと、頼朝亭の側に娘の亭と頼朝の厩屋を建設するため安房国の国務に携る者に工匠を派遣するよう命じ、その五日後には作事に着手したようである(9)。この例から考えると鎌倉近在の国衙を通じて工匠たちを徴発し「都市」の建設に従事させたと考えられる。浅草の例にみる沙汰人とは在庁の人という意味かもしれない。更に、八幡宮建設になぜ浅草の大工を必要としたのかは、はっきりとはわからないが、神事的な要素に加えて、鎌倉の建設需要に対し浅草の大工まで徴発しなけれは間に合わなかったということかもしれない。いずれにしろ、ここでは古代末から中世初期にかけて、ことに「都市」鎌倉建設に従事した浅草大工集団の存在を指摘しておくにとどめる。
これは メッセージ 119 (klekketi さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a1hjbfoba5dca51a1ia4na4aait20_1/121.html