君権と戦争責任
投稿者: nita2 投稿日時: 2005/07/19 18:27 投稿番号: [11081 / 17759]
>議会が勅令を覆すことは、協賛に反することであり、不可能であった。
>議会が勅令を覆せる、と主張した天皇機関説は、公式に否認された。
天皇機関説の否認は国家主権か天皇主権かという憲法解釈上の問題であって、憲法が改正され、制度上、勅令が覆せなくなった訳ではありません。
勅令の名で行われる政令の施行がより権威づけられたという側面はありますが、もともとそういうシステムだったことは前稿で述べた通りです。
>議会や内閣よりも「格上」の枢密院が「反対」の旨を天皇に上奏した場合、その事案は却下となる。
>議会や内閣には、枢密院の反対を押し切る力はなかった。
それなら却下するのは枢密院じゃなくて天皇ですし、枢密院は主体性を持った諮問機関ってことでしょう。
「枢密院に却下させることもできた」というのは、どういう意味なんですか?
>輔弼と拘束は異なる。
>輔弼とは、要するに、天皇の意に沿って所掌の国務を処理することである。
>国務大臣の意見が対立した場合、天皇が支持した方が通ったのである。
「国務大臣が天皇を拘束したことは全くなかった。」という貴殿の意見への反論です。
>2.26事件では、叛乱将校への寛大な処置を進言した川島陸相の輔弼を退けた。
そんな輔弼が実際に行われたとしたら統帥権の干犯でしょう?
>1938年には、第1次近衛改造内閣で、宇垣一成外相の輔弼を退けた。
>(宇垣は、蒋介石との直接和解による日中戦争早期解決を主張し、また中国問題を外務省から取上
>げて新設の興亜院の所掌とすることに反対していた。)
>(これに対し板垣征四郎陸相が反対したが、昭和天皇は板垣を支持した。)
閣議決定は拡大路線でした。また、宇垣が講和を奏請したこともありません。
>1941年には、第3次近衛内閣で、日米開戦に賛成した東條陸相を支持し、反対した近衛首相
>の輔弼を退けた。
近衛首相が天皇に開戦中止を奏請した事実はありません。
近衛は8月にルーズベルトとの会談が不調に終わった時は開戦すると東條と約束しました。
それで、9月の御前会議で10月上旬まで外交交渉が纏まらない場合は10月下旬に開戦すると決定したのです。
で、10月に外交失敗が確定し近衛が辞職を願い出たので、天皇は即座に白紙還元の詔勅を出し、9月の決定を無効にし、戦争回避の為の唯一の打開策として東條に大命降下したのです。
>東郷茂徳外相の輔弼を退けた
東郷が天皇に奏請した事実はありません。東條と対立しても曲げず閣内不統一を招き辞職しただけです。
>賛成した小磯首相の輔弼を退けた。
首相、外相と軍部を併せた最高戦争指導者会議で小磯案を支持したものはいませんでした。
>宇垣は総理になっていない。
文意は天皇は宇垣を嫌っていたが、その意向を入れず大命は降下されたということです。
>天皇の承認した上位の基本的な命令を遂行するために、現場で下位の細部の命令が出される。
>天皇の承認にリンクしない現場の勝手な命令は、軍紀違反である。
単なる軍紀違反ではなく統帥権の干犯ですが、頻繁に行われたことは貴殿も認めていたのでは?
>史実に反する。
>2.26事件での奉勅命令は、28日の公布後忠実に実行された。
>南京攻略については、昭和天皇の承認を得て1937年12月1日に大本営から攻略命令が出た。
2.26事件については別稿。
南京攻略については11月24日の御前会議で説明した下村大将の回想応答録によります。
↓『下村定大将回顧応答録』下村定の項参照
http://members.fortunecity.com/kknanking/sougou/jp_gun/kaisou.html#Anchor-7077
この後、29日に現地から攻撃開始の意見具申があり、閑院宮参謀総長の了解のもと12月1日の発令となります。
>国外作戦の展開、軍の出動と増援を、事後承認した。
>1932年1月には、関東軍へ勅語を出して誉めた。
勅語で現場の暴走を誉めたのですか?
また、1932年1月以降も現場の暴走はありましたが、非常に限られており、暴走が恒常化し戦火が拡大した訳ではありません。
>昭和天皇は、当時の国際法であったパリ不戦条約や九カ国条約に違反し、一連の侵略戦争の計画
>及び遂行を指導した。これに伴って、当時の交戦法規への違反にも責任がある。
具体例を挙げていただければ誰も天皇の責任を否定しないと思いますが、たとえ天皇の責任を明確にする記録があっても公開されていませんし、回想記や日記にしても天皇を庇う立場の\xA4
>議会が勅令を覆せる、と主張した天皇機関説は、公式に否認された。
天皇機関説の否認は国家主権か天皇主権かという憲法解釈上の問題であって、憲法が改正され、制度上、勅令が覆せなくなった訳ではありません。
勅令の名で行われる政令の施行がより権威づけられたという側面はありますが、もともとそういうシステムだったことは前稿で述べた通りです。
>議会や内閣よりも「格上」の枢密院が「反対」の旨を天皇に上奏した場合、その事案は却下となる。
>議会や内閣には、枢密院の反対を押し切る力はなかった。
それなら却下するのは枢密院じゃなくて天皇ですし、枢密院は主体性を持った諮問機関ってことでしょう。
「枢密院に却下させることもできた」というのは、どういう意味なんですか?
>輔弼と拘束は異なる。
>輔弼とは、要するに、天皇の意に沿って所掌の国務を処理することである。
>国務大臣の意見が対立した場合、天皇が支持した方が通ったのである。
「国務大臣が天皇を拘束したことは全くなかった。」という貴殿の意見への反論です。
>2.26事件では、叛乱将校への寛大な処置を進言した川島陸相の輔弼を退けた。
そんな輔弼が実際に行われたとしたら統帥権の干犯でしょう?
>1938年には、第1次近衛改造内閣で、宇垣一成外相の輔弼を退けた。
>(宇垣は、蒋介石との直接和解による日中戦争早期解決を主張し、また中国問題を外務省から取上
>げて新設の興亜院の所掌とすることに反対していた。)
>(これに対し板垣征四郎陸相が反対したが、昭和天皇は板垣を支持した。)
閣議決定は拡大路線でした。また、宇垣が講和を奏請したこともありません。
>1941年には、第3次近衛内閣で、日米開戦に賛成した東條陸相を支持し、反対した近衛首相
>の輔弼を退けた。
近衛首相が天皇に開戦中止を奏請した事実はありません。
近衛は8月にルーズベルトとの会談が不調に終わった時は開戦すると東條と約束しました。
それで、9月の御前会議で10月上旬まで外交交渉が纏まらない場合は10月下旬に開戦すると決定したのです。
で、10月に外交失敗が確定し近衛が辞職を願い出たので、天皇は即座に白紙還元の詔勅を出し、9月の決定を無効にし、戦争回避の為の唯一の打開策として東條に大命降下したのです。
>東郷茂徳外相の輔弼を退けた
東郷が天皇に奏請した事実はありません。東條と対立しても曲げず閣内不統一を招き辞職しただけです。
>賛成した小磯首相の輔弼を退けた。
首相、外相と軍部を併せた最高戦争指導者会議で小磯案を支持したものはいませんでした。
>宇垣は総理になっていない。
文意は天皇は宇垣を嫌っていたが、その意向を入れず大命は降下されたということです。
>天皇の承認した上位の基本的な命令を遂行するために、現場で下位の細部の命令が出される。
>天皇の承認にリンクしない現場の勝手な命令は、軍紀違反である。
単なる軍紀違反ではなく統帥権の干犯ですが、頻繁に行われたことは貴殿も認めていたのでは?
>史実に反する。
>2.26事件での奉勅命令は、28日の公布後忠実に実行された。
>南京攻略については、昭和天皇の承認を得て1937年12月1日に大本営から攻略命令が出た。
2.26事件については別稿。
南京攻略については11月24日の御前会議で説明した下村大将の回想応答録によります。
↓『下村定大将回顧応答録』下村定の項参照
http://members.fortunecity.com/kknanking/sougou/jp_gun/kaisou.html#Anchor-7077
この後、29日に現地から攻撃開始の意見具申があり、閑院宮参謀総長の了解のもと12月1日の発令となります。
>国外作戦の展開、軍の出動と増援を、事後承認した。
>1932年1月には、関東軍へ勅語を出して誉めた。
勅語で現場の暴走を誉めたのですか?
また、1932年1月以降も現場の暴走はありましたが、非常に限られており、暴走が恒常化し戦火が拡大した訳ではありません。
>昭和天皇は、当時の国際法であったパリ不戦条約や九カ国条約に違反し、一連の侵略戦争の計画
>及び遂行を指導した。これに伴って、当時の交戦法規への違反にも責任がある。
具体例を挙げていただければ誰も天皇の責任を否定しないと思いますが、たとえ天皇の責任を明確にする記録があっても公開されていませんし、回想記や日記にしても天皇を庇う立場の\xA4
これは メッセージ 11048 (latter_autumn さん)への返信です.
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