北朝鮮の思い出(6)
投稿者: haibokunohateni1945 投稿日時: 2012/09/05 19:44 投稿番号: [7 / 7]
八月九日にソ連が敵国に回って参戦し、我方に対し一方的に宣戦布告、国境を突破して侵入、ソ連機は各地上空に跳梁銃撃。
十一日には咸(かん)鏡北道(きょうほくどう)慶(けい)興(こう)方面から羅津(らしん)・雄基(ゆうき)にソ連軍上陸。雄基駐屯部隊は撤退を開始、指標をなくした住民も重い足を引きずりながら茂山(もさん)に向けて避難を開始。
十二日清津(せいしん)は艦砲射撃を受け、埠頭施設と艦船が無残に撃沈されつつ有る。部隊は撤退を始め、自爆と猛爆で猛焔に包まれて居る。
十三日ソ連軍、清津に上陸。同方面戦禍の巷と化す。
住民は茂山に向かって避難集結中。
十四日 城津(じょしん)よりの避難民第一陣、咸(かん)興(こう)駅を通過して南下したのに続き後続して居る。
我々が呑気に舟遊びをして居た其の間にも既に、ソ連と国境を接して居る北部では惨憺たる状況に成って居たのだった。侵入して来たソ連の旧式の飛行機さえも撃ち落とす事が出来なかった。住民は山岳地帯に、逃げ込んで居ると云う事だった。
十五日正午の天皇の玉音放送が終了した直後から市内の有力者が話しあった様に私の元に何か家に不幸でも有った時の様に悔みの物でも云う様にやって来ました。
漁協の理事や学校長等日本人は居りますのに、日本の敗戦を聞き主席の私の元にだけ来るのも、平素から親密に交際して居た訳ですが、これ程の又敗戦に依る私の責任を深く感じるのでした。
有力者達は私に気の毒がって長居する者は居らず皆早く帰った後に、「警察の職務が今後どうなるか解らぬ、朝鮮総督府より別命が有るまで、此のままで待機せよ」との事だった。
「さし向き、戸口調査簿と秘密文書は至急焼却処分して呉れ。他署管内では異常な暴動事件が発生し始めている情報が有るが退汐の状況はどうだ。遠く離れて居るので慎重にやってくれ」と云う署長からの電話でした。
私は署長の此の電話で秘密文書を焼却せよと云う事から、事態が急激に悪化する事を悟り、最早いかなることが起きても他人は頼れぬ事を覚悟致しました処に、同期の吉中君から又警備電話が入りました。
「進駐軍は米軍では無い、ソ連軍が既に満州から朝鮮内に進駐しつつあり、日本人・朝鮮人を問わず婦女子に暴行略奪中で、日本人の少ない部落では朝鮮人が暴行略奪を始めた為日本人は、着の身着のままリュック一つを背負って南下中だ、田舎に居ては危険だ、私にも早く日本人の多い興南に集結した方が安全だ」と知らして呉れたのでした。
私の居る退汐は未だ静かだが、他地方に依っては終戦と同時に早くも朝鮮人の暴動が始まっている。私も米軍が進駐して来るだろうと思っていたが、ソ連軍が進駐してくる。私は此の時まだ米軍だって、ソ連軍だって同じ事だと思って居りましたが、戦勝国の軍隊が進駐して婦女子に暴行を加える。是は致し方無い、日本軍だって支那本土では同じ様な事をしていた筈だと思いました。
此のソ連と云う奴が、米国とは比較にならない鬼畜無奴だったとは知りませんでした。三十八度線以北には此の鬼畜が進駐して来た為、警察に居た私もソ連の捕虜になった。朝鮮に居た日本人でも南と北では比較出来ぬ、北鮮に居た日本人は悲惨な目に会うのでした。
十一日には咸(かん)鏡北道(きょうほくどう)慶(けい)興(こう)方面から羅津(らしん)・雄基(ゆうき)にソ連軍上陸。雄基駐屯部隊は撤退を開始、指標をなくした住民も重い足を引きずりながら茂山(もさん)に向けて避難を開始。
十二日清津(せいしん)は艦砲射撃を受け、埠頭施設と艦船が無残に撃沈されつつ有る。部隊は撤退を始め、自爆と猛爆で猛焔に包まれて居る。
十三日ソ連軍、清津に上陸。同方面戦禍の巷と化す。
住民は茂山に向かって避難集結中。
十四日 城津(じょしん)よりの避難民第一陣、咸(かん)興(こう)駅を通過して南下したのに続き後続して居る。
我々が呑気に舟遊びをして居た其の間にも既に、ソ連と国境を接して居る北部では惨憺たる状況に成って居たのだった。侵入して来たソ連の旧式の飛行機さえも撃ち落とす事が出来なかった。住民は山岳地帯に、逃げ込んで居ると云う事だった。
十五日正午の天皇の玉音放送が終了した直後から市内の有力者が話しあった様に私の元に何か家に不幸でも有った時の様に悔みの物でも云う様にやって来ました。
漁協の理事や学校長等日本人は居りますのに、日本の敗戦を聞き主席の私の元にだけ来るのも、平素から親密に交際して居た訳ですが、これ程の又敗戦に依る私の責任を深く感じるのでした。
有力者達は私に気の毒がって長居する者は居らず皆早く帰った後に、「警察の職務が今後どうなるか解らぬ、朝鮮総督府より別命が有るまで、此のままで待機せよ」との事だった。
「さし向き、戸口調査簿と秘密文書は至急焼却処分して呉れ。他署管内では異常な暴動事件が発生し始めている情報が有るが退汐の状況はどうだ。遠く離れて居るので慎重にやってくれ」と云う署長からの電話でした。
私は署長の此の電話で秘密文書を焼却せよと云う事から、事態が急激に悪化する事を悟り、最早いかなることが起きても他人は頼れぬ事を覚悟致しました処に、同期の吉中君から又警備電話が入りました。
「進駐軍は米軍では無い、ソ連軍が既に満州から朝鮮内に進駐しつつあり、日本人・朝鮮人を問わず婦女子に暴行略奪中で、日本人の少ない部落では朝鮮人が暴行略奪を始めた為日本人は、着の身着のままリュック一つを背負って南下中だ、田舎に居ては危険だ、私にも早く日本人の多い興南に集結した方が安全だ」と知らして呉れたのでした。
私の居る退汐は未だ静かだが、他地方に依っては終戦と同時に早くも朝鮮人の暴動が始まっている。私も米軍が進駐して来るだろうと思っていたが、ソ連軍が進駐してくる。私は此の時まだ米軍だって、ソ連軍だって同じ事だと思って居りましたが、戦勝国の軍隊が進駐して婦女子に暴行を加える。是は致し方無い、日本軍だって支那本土では同じ様な事をしていた筈だと思いました。
此のソ連と云う奴が、米国とは比較にならない鬼畜無奴だったとは知りませんでした。三十八度線以北には此の鬼畜が進駐して来た為、警察に居た私もソ連の捕虜になった。朝鮮に居た日本人でも南と北では比較出来ぬ、北鮮に居た日本人は悲惨な目に会うのでした。
これは メッセージ 6 (敗北の果てに さん)への返信です.
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