12月18日 慰霊祭後の涙の訓示はなかった3
投稿者: kireigotowadame 投稿日時: 2011/10/22 14:31 投稿番号: [1011 / 2250]
板倉由明著
『本当はこうだった南京事件』
299〜302p
《 ところで、慰霊祭はもう一回あった。 翌昭和十三年二月七日の上海派遣軍慰霊祭
(十二月の慰霊祭の五十日祭にあたる) である。松井日記は次のように記す。
「嚢
(さき)
ノモノハ
戦勝ノ誇ト気分ニテ
寧
(むし)
ロ忠霊ニ対シ
悲哀ノ情少カリシモ、今日ハ只々悲哀其
(その)
物ニ
捉
(とら)
ハレ
責任感ノ太ク胸中ニ
迫ルヲ覚エタリ。
蓋
(けだ)
シ
南京占領後ノ軍ノ諸不始末ト
ソノ後地方自治、
政権工作等ノ
進捗
(しんちょく)
セサルニ起因スルモノナリ。
仍
(よっ)
テ 式後参集諸隊長ヲ集メ
予ノコノ所感ヲ披露シテ
一般ノ戒飭
(かいちょく)
ヲ促セリ。」
この訓示は相当のショックを朝香宮司令官を始めとする参列者に与えた。
国際委員会公文書、上村
(利通、上海派遣軍参謀副長・大佐)
日記にも
記されているが、飯沼日記によればその内容は
「南京入城ノ時ハ
誇ラシキ気持ニテ
其翌日ノ慰霊祭
又
其気分ナリシモ
本日ハ悲シミノ気持ノミナリ。
其レハ此
(この)
五十日間ニ幾多ノ忌
(いま)
ハシキ事件ヲ起シ、
戦没将兵ノ樹テタル功ヲ
半減スルニ至リタレハナリ。
何ヲ以テ
此英霊ニ見
(まみ)
へンヤ」
という趣旨であった。
しかし、この訓示に対する軍人一般の評判はあまり良くなく
「凱旋気相当ニ横溢シアルハ
怪シカラヌトノコトモアリ」
といった批判があり、
その夜の晩餐会での
「宣撫ハ
兵十人ニ
一人ノ支那人ヲ
難有ク思ハセヨ」
という
要望にも、「日本兵より支那人が可愛いのか」
という声があったようである。
・・・・
この日、松本氏が深堀
(遊亀、上海派遣軍報道部長)
中佐と南京に居たことは、
『南京新聞』
発行と関連して、前田雄二氏の日記及び
『戦争の流れの中に』
に記されている。
「南京戦史」
の編集メンバーが初めて松本氏に会ったのは昭和六十一年暮であった。
このとき確認したのは次の四点である。
①
十二月十七日の入城式には参列していない。
②
そのころ南京へ行ったのは一回だけ。
③
汽車で往復した。
④
参列者は五百人から一千人くらい。
これでほぼ二月説が立証されたとみてよい。
つづく
これは メッセージ 1010 (kireigotowadame さん)への返信です.
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