Re: ロリン星改めカリン星
投稿者: weary100jp 投稿日時: 2006/04/18 22:10 投稿番号: [73798 / 95793]
なんだー、キンカンさんご健在では無いですか。
それは何よりです。
それでは私からもささやかなレスを一言。
自粛との事で気には成っていましたが、私も少々忙しい事がありましてレス出来ませんでした。
皆さんが仰るとおり別に気にする事はありません。
おふざけも電波もときどき無くては寂しいものですし、ここはそう言う意味で開かれた考えの方もいらっしゃいます。
反論や主張のぶつかりはあっても、広くそれぞれの存在を認めるのが民主主義かと・・
結局キンカンさんがぶつかっていた事は、私はなんでもないことだと思うのです。
少し分析するとやはりOjinさんはディベートの国に生まれてその習慣が身に付いた人と言う事です。
そして、我々は苦言を言う時も直接的で明確な表現は“嫌われるのだ”とされながら生活して来ている。
どちらも悪い人ではなくても、それだけで議論に入る前から元々十分摩擦の種は存在している訳です。
でも最近の日本も少しずつ変化しているので、ディベートの習慣のある人とは議論しないと言う訳には行かなくなって来たのかも知れません。
自分も相手もイディオロギーやアイデンティティーはしっかりと持った上で、双方の習慣(方法、道具?)の部分は可能な限り認め譲歩しあう。
これからは世界も近くなって、これがないと本質的な議論に入る事も出来ないと思うのです。
ディベートについては私自身も良く知っている訳ではありませんが、どんなものか概念的に知ればそれ程大上段に構える事もなさそうです。
これまでもOjinさんが折に触れては論理的な発言を求めてきたのは、そこに大きな理由と本質があると思うのです。
また逆にOjinさん自身も“日本人がわざと直接的かつ論理的な表現を止めている事ばかりではなくて、日本での周囲環境や習慣からすぐには出来ない(方法自体がワカラナイ)のだ。” と言う事が完全には呑み込めていないのかも知れませんね。
二人の人が違う考えを持てば議論が起こる。
そして議論に議論を重ねても平行線でどちらも決して主張を変えずに戦い続けた場合、これは結局原理的に言っても最後の最後には論理と論理のぶつかり合いになる。
論理と言う事になれば、いずれかの主張に必ず何らかの有意差が存在するので最後には結論を出す事が出来る。
日本では“なあなあ”と言う手段が一つ、または両者よりも影響力の強い方が“仕切り屋さん”として出て来て、好むと好まざるとに拘らず“しきり屋さん”の価値観で結論が出される。だから泣き寝入りの場合もありうる。
しかし、もしもこれが裁判という場合は、人間が事を考え判断を下すのですから結局前述の論理の闘いになる。
日本的な方法は、ある意味で“おくゆかしい”またある意味では胡散臭くて狡猾と取られ易い。
実際 国際会議などの裏事情では・・
本当の会議は会議終了後に始るらしい。
マスコミは取り上げないが、問題山積みの国々代表は助けてくれと言って力のある国の代表の周りに輪を作る。
しかし日本代表の周りには“おかねちょうだい”とは言っても何処の代表も真剣に国内問題を相談に来る者はいない。
彼らの感覚では、真剣に話しても“おくゆかしい”ので問題解決には時間の無駄との事らしい。
それは何よりです。
それでは私からもささやかなレスを一言。
自粛との事で気には成っていましたが、私も少々忙しい事がありましてレス出来ませんでした。
皆さんが仰るとおり別に気にする事はありません。
おふざけも電波もときどき無くては寂しいものですし、ここはそう言う意味で開かれた考えの方もいらっしゃいます。
反論や主張のぶつかりはあっても、広くそれぞれの存在を認めるのが民主主義かと・・
結局キンカンさんがぶつかっていた事は、私はなんでもないことだと思うのです。
少し分析するとやはりOjinさんはディベートの国に生まれてその習慣が身に付いた人と言う事です。
そして、我々は苦言を言う時も直接的で明確な表現は“嫌われるのだ”とされながら生活して来ている。
どちらも悪い人ではなくても、それだけで議論に入る前から元々十分摩擦の種は存在している訳です。
でも最近の日本も少しずつ変化しているので、ディベートの習慣のある人とは議論しないと言う訳には行かなくなって来たのかも知れません。
自分も相手もイディオロギーやアイデンティティーはしっかりと持った上で、双方の習慣(方法、道具?)の部分は可能な限り認め譲歩しあう。
これからは世界も近くなって、これがないと本質的な議論に入る事も出来ないと思うのです。
ディベートについては私自身も良く知っている訳ではありませんが、どんなものか概念的に知ればそれ程大上段に構える事もなさそうです。
これまでもOjinさんが折に触れては論理的な発言を求めてきたのは、そこに大きな理由と本質があると思うのです。
また逆にOjinさん自身も“日本人がわざと直接的かつ論理的な表現を止めている事ばかりではなくて、日本での周囲環境や習慣からすぐには出来ない(方法自体がワカラナイ)のだ。” と言う事が完全には呑み込めていないのかも知れませんね。
二人の人が違う考えを持てば議論が起こる。
そして議論に議論を重ねても平行線でどちらも決して主張を変えずに戦い続けた場合、これは結局原理的に言っても最後の最後には論理と論理のぶつかり合いになる。
論理と言う事になれば、いずれかの主張に必ず何らかの有意差が存在するので最後には結論を出す事が出来る。
日本では“なあなあ”と言う手段が一つ、または両者よりも影響力の強い方が“仕切り屋さん”として出て来て、好むと好まざるとに拘らず“しきり屋さん”の価値観で結論が出される。だから泣き寝入りの場合もありうる。
しかし、もしもこれが裁判という場合は、人間が事を考え判断を下すのですから結局前述の論理の闘いになる。
日本的な方法は、ある意味で“おくゆかしい”またある意味では胡散臭くて狡猾と取られ易い。
実際 国際会議などの裏事情では・・
本当の会議は会議終了後に始るらしい。
マスコミは取り上げないが、問題山積みの国々代表は助けてくれと言って力のある国の代表の周りに輪を作る。
しかし日本代表の周りには“おかねちょうだい”とは言っても何処の代表も真剣に国内問題を相談に来る者はいない。
彼らの感覚では、真剣に話しても“おくゆかしい”ので問題解決には時間の無駄との事らしい。
これは メッセージ 73642 (kincan_mini2 さん)への返信です.
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