勝手に話を作ってみた
投稿者: worst_human83 投稿日時: 2005/12/12 00:10 投稿番号: [4394 / 22816]
微妙に設定と違うところがあったりしますが、それは許して♪
『大江炉四十八手裏表物語』 序章
寺子屋の師匠が、年末払いとなっている教え賃を駆けずり回って集めている大雪の日、幕閣で一つの決定がなされた。
「新発田藩の領地を没収し、藩主溝口下野守成定には切腹を申しつける」
という大名取り潰しの令だった。
江戸城に詰めていた諸藩の大名は、この苛烈すぎる命令を、あるいは不審がり、あるいは最もだと納得し、多くは「また彼のお人の仕業か」と囁いたりした。
ことの始まりは、飛ぶ鳥を落とす勢いと噂される老中松平那是陀守の放蕩息子、飛雄馬介が溝口下野守の愛娘、安須姫に目を付けたことからだった。
美貌で名高い安須姫の評判を耳にした飛雄馬介が、父である那是陀守に頼み込み、縁談を申し入れたのだ。
安須姫の父、溝口下野守は幕府内でも硬骨漢として知られる人物で、そんな人物が評判の良くない飛雄馬介に自分の娘をやることに承諾するはずも無く、
「安須には知勇兼備の男を与えたいと思っております。学問成らず、剣術成らず、暇さえあれば吉原通いの飛雄馬介殿などはとても、安須と釣り合うとは思いませぬ」
と、けんもほろろに断った。
この言葉はその後諸大名の間に広まり、子息を薫陶するときに
「松平家の馬鹿息子のようにはなるなよ。妻さえ娶ること叶わぬぞ」
と言い、悪しき例として引き合いに出すようになった。
治まらないのは、松平親子である。譜代大名である自分達の願いを断り、体面に泥を塗ったと逆恨みし、溝口家に様々な嫌がらせをした。
しかし、溝口下野守はびくともせず、却って那是陀守の非違を評定所へ提出しようとさえした。
いくら権勢ただならぬ老中那是陀守とはいえ、評定所にそのようなことを提出されれば、取調べは免れられない。
たとえ無罪を勝ち取っても、競争の激しい老中仲間が、取調べ中に自分の失脚を図るだろう。
窮した那是陀守は、先手を打って溝口家に、ご禁制である抜け荷(密輸)の罪を着せることにした。
那是陀守はかねてよりの御用商人、越後屋あくあ佐衛門を呼び、南蛮の煙草、ロザリオなどを仕入れさせた。越後屋あくあ佐衛門は、表は呉服屋として看板を張っているが、裏では香具師としての顔も持ち、堺にも顔が利いた。堺の豪商に出島の輸入品を取り扱っているものが居るが、そのものに頼み、阿蘭陀の煙草、ロザリオなどを手に入れ、那是陀守の手へと渡した。
次に老中支配の南町奉行、波乗ちょぱ四郎を呼び、その南蛮の品を江戸詰めの溝口藩士の長屋へと放り込ませた。
波乗ちょぱ四郎はすぐさま動いた。長屋に南蛮の品を放り込み、放り込まれた長屋の藩士が藩邸から出ると同時に捕縛した。罪状は「ご禁制の品を所持している」ということ。
本来、藩士に対しては町奉行の権限は及ばないが、抜け荷に限りそうではない。藩ぐるみで抜け荷をやる藩は多く、藩士を捕縛し、当該の藩に引き渡しても公正な処分が下されるとは考えにくい。
薩摩藩などは、末端の藩士に至るまで抜け荷に関与していて、かつて町奉行所が、「禁制の品を所持している」として捕縛した藩士を薩摩藩に引き渡したことがあったが、その翌日に引き渡した藩士が何食わぬ顔で吉原へと出かけていったことがある。
それ以来、幕府は特例措置として
「抜け荷に関する事件の場合は、藩の承諾なしに町奉行が取り調べてよい」
という法令を出した。
『大江炉四十八手裏表物語』 序章
寺子屋の師匠が、年末払いとなっている教え賃を駆けずり回って集めている大雪の日、幕閣で一つの決定がなされた。
「新発田藩の領地を没収し、藩主溝口下野守成定には切腹を申しつける」
という大名取り潰しの令だった。
江戸城に詰めていた諸藩の大名は、この苛烈すぎる命令を、あるいは不審がり、あるいは最もだと納得し、多くは「また彼のお人の仕業か」と囁いたりした。
ことの始まりは、飛ぶ鳥を落とす勢いと噂される老中松平那是陀守の放蕩息子、飛雄馬介が溝口下野守の愛娘、安須姫に目を付けたことからだった。
美貌で名高い安須姫の評判を耳にした飛雄馬介が、父である那是陀守に頼み込み、縁談を申し入れたのだ。
安須姫の父、溝口下野守は幕府内でも硬骨漢として知られる人物で、そんな人物が評判の良くない飛雄馬介に自分の娘をやることに承諾するはずも無く、
「安須には知勇兼備の男を与えたいと思っております。学問成らず、剣術成らず、暇さえあれば吉原通いの飛雄馬介殿などはとても、安須と釣り合うとは思いませぬ」
と、けんもほろろに断った。
この言葉はその後諸大名の間に広まり、子息を薫陶するときに
「松平家の馬鹿息子のようにはなるなよ。妻さえ娶ること叶わぬぞ」
と言い、悪しき例として引き合いに出すようになった。
治まらないのは、松平親子である。譜代大名である自分達の願いを断り、体面に泥を塗ったと逆恨みし、溝口家に様々な嫌がらせをした。
しかし、溝口下野守はびくともせず、却って那是陀守の非違を評定所へ提出しようとさえした。
いくら権勢ただならぬ老中那是陀守とはいえ、評定所にそのようなことを提出されれば、取調べは免れられない。
たとえ無罪を勝ち取っても、競争の激しい老中仲間が、取調べ中に自分の失脚を図るだろう。
窮した那是陀守は、先手を打って溝口家に、ご禁制である抜け荷(密輸)の罪を着せることにした。
那是陀守はかねてよりの御用商人、越後屋あくあ佐衛門を呼び、南蛮の煙草、ロザリオなどを仕入れさせた。越後屋あくあ佐衛門は、表は呉服屋として看板を張っているが、裏では香具師としての顔も持ち、堺にも顔が利いた。堺の豪商に出島の輸入品を取り扱っているものが居るが、そのものに頼み、阿蘭陀の煙草、ロザリオなどを手に入れ、那是陀守の手へと渡した。
次に老中支配の南町奉行、波乗ちょぱ四郎を呼び、その南蛮の品を江戸詰めの溝口藩士の長屋へと放り込ませた。
波乗ちょぱ四郎はすぐさま動いた。長屋に南蛮の品を放り込み、放り込まれた長屋の藩士が藩邸から出ると同時に捕縛した。罪状は「ご禁制の品を所持している」ということ。
本来、藩士に対しては町奉行の権限は及ばないが、抜け荷に限りそうではない。藩ぐるみで抜け荷をやる藩は多く、藩士を捕縛し、当該の藩に引き渡しても公正な処分が下されるとは考えにくい。
薩摩藩などは、末端の藩士に至るまで抜け荷に関与していて、かつて町奉行所が、「禁制の品を所持している」として捕縛した藩士を薩摩藩に引き渡したことがあったが、その翌日に引き渡した藩士が何食わぬ顔で吉原へと出かけていったことがある。
それ以来、幕府は特例措置として
「抜け荷に関する事件の場合は、藩の承諾なしに町奉行が取り調べてよい」
という法令を出した。
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