人を殺してはいけない理由
投稿者: discover_200 投稿日時: 2009/08/21 02:28 投稿番号: [58544 / 63339]
可哀想と感じない、可哀想でも殺せるという人格障害(既知害)は人殺しができることになる。
事実、そういう既知害による快楽殺人が立て続けに何度も起こって旧世代を驚愕させたのだ。
それは、ここのクジラ殺しのそれ「可哀想だが食う」と全く根が同じである。
苛めを見ても「可哀想だが何もしない」と同じである。
可哀想だが”できない(無力感)”のと”しない(不作為、無関心)”のでは全く違う。
その根を作ったのは旧世代の善も悪も相対化した自己欺瞞、誤魔化しにある。
この既知害を抑制しているのは倫理ではなく、恥でもなく、捕まった場合の恐怖だけである。
クジラ殺しの餓鬼には善も悪も区別がつかない。
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善悪の見極めがつかないので害既知
可哀想という攻撃を抑制する感情が欠損している餓鬼は善悪の見極めがつかないことになる。
法律に反することをやらなければいい?
その全体量から、我々は法律などほとんど読んだことは無いと言ってよい。
それでもやっていいことと悪いことが分かっているのは、倫理観を有しているからだ。
法律のどこかににそれらが書かれているだろうと思っているのである。
それは法律を商売にしている連中でも大差ない。
全部に目を通すことも、読んだにせよそれを覚えていることも到底できはしない。
それでは、善も悪も見極めがつかない餓鬼はどうするのだろう。
法律にあるかどうか調べられる訳が無い。
そして、この種のバカにとっては知らないものは存在しないのだ。
5492(バカ)>ではETとはどこに生息しているどのような生物なのか、実証してもらおうか。
つまり、犯罪者になるしかない。
イジメが犯罪であると知っている餓鬼は果たしてどれだけいるだろう。
倫理観があるなら、それが何らかの法に触れているだろうことは分かってるものだ。
ところが、倫理観の無い餓鬼にはそもそもその基準が無い。
自分のやりたいことをさせない奴が敵なのである。他人、外界は皆そういうものだ。
即ち、全部が敵なのだが、偶々共通の敵で一時的に繋がることができる。
時には法律と良心が相反することがある。それでも己の良心に従うべきである。
これは メッセージ 58543 (discover_200 さん)への返信です.
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