「わたしが菜食になったわけ」一なぜ菜食か
投稿者: springsanbo 投稿日時: 2008/09/22 23:39 投稿番号: [42358 / 63339]
若い子(というか同年代…)の肉好きが不思議です。
「焼肉食べに行こう」は人が喜ぶ代名詞みたいに言われているし、彼らが言うには、
なぜか分からないけど時々無性に肉が食べたくなったりもするそうです。
肉を食べないとイライラする、というのも聞いたことがあります。
恐らくそれが普通なのでしょう。私の家族も普通に肉を食べます。私は一般的な家庭、一般的な環境で育ったと思うのですが、なぜ家族でも私一人がそうなってしまったのでしょうか。
まず菜食の考えを持つきっかけとなったのは、動物愛護の観点からです。
それは高校時代の馬術部での経験が大きく関わっているような気がします。
馬に乗るだけでなく部員には馬の世話も大きな役割だったので、休日にも持ち回りで厩舎に通い、ボロ取り(フン拾い)やチップ換え(馬のお部屋にしきつめているおが屑を取り替える)、シャンプー、時には怪我の看病などもありました。(と言っても看病なんかは学生に任されるのはそうそうないですが。)
彼等はブラッシングすると気持ち良さそうな顔をし、ひっかかってひっぱったら痛いと言って怒るし、人間が後ろに回ると恐がったり、下手な人がぐずぐず乗ってると嫌そうな顔して落とそうとしたりなど、私たちと同じように感情豊かです。私たちにとって馬はとても身近な存在で、愛情をもって接していました。そして、そのような馬を食べられなくなった事に端を発し、牛や豚に展開していきました。そして、菜食の実践は、親元を離れすべて自分の食事は自分で用意するようになったことで可能となりました。
また、以前から関心のあった地球環境問題の視点からも肉食の及ぼす悪影響は甚大であることを知るなど、勉強するにつれ次第に菜食に対しての考え方はしっかりとしてきました。そうは言っても、まだまだ、知らないことがたくさんあります。私は今大学院生で、自分の研究はこれとは別のところにあるのですが、正直なところ、動物とか菜食とかについて勉強したり考えたりすることが、今、私の一番したいことです。そういうこともあって、ここで書くような思想についてはなかなか表立っては言えません。
人が肉を食べるのは、まずそれがおいしいからというのがあります。私もそれは実感と
して分かります。また、家庭や学校では半強制的に肉を食べさせられ、大人になります。
では、なぜ動物を食べることに疑問を抱くことなく笑顔で食べられるのでしょうか。
それにはまず、日本に肉食の文化をもたらした欧米のキリスト教の考え方があります。
「人間は神の像の通りに造られ、地上を支配する使命を帯びて造られた存在だが、動物は
、人間によって支配され、食糧にされてよい」という教えです。(「肉食の思想」鯖田豊之著 中公新書(欧米の肉食習慣の自然的、歴史的、社会的分析))
次にデカルトの思想です。懐疑の結果たどり着いた「我思う。ゆえに我あり。」という彼の哲学の第一原理で説かれる「我」は、魂と同義語です。人間の体も、動物の体も精密な機械である点は似ているが、人間は魂を持っているのに反して、動物は魂を持っていない。そして、意識や感覚の主体は魂なので、動物は意識も感覚も持たない、たんなる精密機械に過ぎない。だから、動物は苦痛を感じない。と彼は考え、この考えによって人は肉食への罪悪感は払拭されるだろうと言っています。
現代に生きる私たちの知識では、キリスト教もデカルトも、その動物観については明らかに事実に反している事は知っています。しかし、現代人が抱いている動物観の根底には、本質的には、これらの思想と同じように、人間と動物の間には断絶的な価値の差があり、その苦痛も顧慮するに値しないという価値判断が働いていて、肉食は許されるという暗黙の了解があるのでしょう。
「焼肉食べに行こう」は人が喜ぶ代名詞みたいに言われているし、彼らが言うには、
なぜか分からないけど時々無性に肉が食べたくなったりもするそうです。
肉を食べないとイライラする、というのも聞いたことがあります。
恐らくそれが普通なのでしょう。私の家族も普通に肉を食べます。私は一般的な家庭、一般的な環境で育ったと思うのですが、なぜ家族でも私一人がそうなってしまったのでしょうか。
まず菜食の考えを持つきっかけとなったのは、動物愛護の観点からです。
それは高校時代の馬術部での経験が大きく関わっているような気がします。
馬に乗るだけでなく部員には馬の世話も大きな役割だったので、休日にも持ち回りで厩舎に通い、ボロ取り(フン拾い)やチップ換え(馬のお部屋にしきつめているおが屑を取り替える)、シャンプー、時には怪我の看病などもありました。(と言っても看病なんかは学生に任されるのはそうそうないですが。)
彼等はブラッシングすると気持ち良さそうな顔をし、ひっかかってひっぱったら痛いと言って怒るし、人間が後ろに回ると恐がったり、下手な人がぐずぐず乗ってると嫌そうな顔して落とそうとしたりなど、私たちと同じように感情豊かです。私たちにとって馬はとても身近な存在で、愛情をもって接していました。そして、そのような馬を食べられなくなった事に端を発し、牛や豚に展開していきました。そして、菜食の実践は、親元を離れすべて自分の食事は自分で用意するようになったことで可能となりました。
また、以前から関心のあった地球環境問題の視点からも肉食の及ぼす悪影響は甚大であることを知るなど、勉強するにつれ次第に菜食に対しての考え方はしっかりとしてきました。そうは言っても、まだまだ、知らないことがたくさんあります。私は今大学院生で、自分の研究はこれとは別のところにあるのですが、正直なところ、動物とか菜食とかについて勉強したり考えたりすることが、今、私の一番したいことです。そういうこともあって、ここで書くような思想についてはなかなか表立っては言えません。
人が肉を食べるのは、まずそれがおいしいからというのがあります。私もそれは実感と
して分かります。また、家庭や学校では半強制的に肉を食べさせられ、大人になります。
では、なぜ動物を食べることに疑問を抱くことなく笑顔で食べられるのでしょうか。
それにはまず、日本に肉食の文化をもたらした欧米のキリスト教の考え方があります。
「人間は神の像の通りに造られ、地上を支配する使命を帯びて造られた存在だが、動物は
、人間によって支配され、食糧にされてよい」という教えです。(「肉食の思想」鯖田豊之著 中公新書(欧米の肉食習慣の自然的、歴史的、社会的分析))
次にデカルトの思想です。懐疑の結果たどり着いた「我思う。ゆえに我あり。」という彼の哲学の第一原理で説かれる「我」は、魂と同義語です。人間の体も、動物の体も精密な機械である点は似ているが、人間は魂を持っているのに反して、動物は魂を持っていない。そして、意識や感覚の主体は魂なので、動物は意識も感覚も持たない、たんなる精密機械に過ぎない。だから、動物は苦痛を感じない。と彼は考え、この考えによって人は肉食への罪悪感は払拭されるだろうと言っています。
現代に生きる私たちの知識では、キリスト教もデカルトも、その動物観については明らかに事実に反している事は知っています。しかし、現代人が抱いている動物観の根底には、本質的には、これらの思想と同じように、人間と動物の間には断絶的な価値の差があり、その苦痛も顧慮するに値しないという価値判断が働いていて、肉食は許されるという暗黙の了解があるのでしょう。
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