善も悪も区別がつかないクジラミ餓鬼
投稿者: discover_200 投稿日時: 2008/08/23 02:34 投稿番号: [39214 / 63339]
動物を”可哀想と思いながら食ってる”というのは
口先だけの法螺か△違いのどちらか、又は、両方である。
我々は、可哀想と思わないからこそ動物や植物が食える。
それを食わなくても死なないのだから、本当に可哀想と思うなら幾らでも我慢できる。
今、無知の教師や母親が子供の食べ残しを防ぐ為に、ヤクザ映画を見過ぎた糞坊主の作り話を鵜呑みにしたのだろうが、”頂きます”とは”命を頂くこと”のだから少しも無駄にしてはいけないと諭すそうだ。
ウソだよウソ。「命を頂く」は時代劇でもヤクザ映画でも殺し屋の決まり文句なんだよ。
最近は考える力のないバカなガキばかりでこれが結構通用するようだ。
未だにそれを信じているバカがここにも時々顔を出す。
我々の時代にそんなことを言うものなら、皆ベジタリアンになってしまったことだろう。
可哀想という気持ち(共感)は攻撃の抑制と保護行動を起動する為に存在する。
人を殺してはいけない理由は可哀想だからである。正直に言ってこれ(”共感”)以上の理由は無い。
163.人を殺してはいけない理由=4014
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&board=1835563&tid=a5afa58a5ildbja4ka4da4a 4a4f&sid=1835563&action=m&mid=4014
可哀想と感じない、可哀想でも殺せるという人格障害(△違い)は人殺しができることになる。
事実、そういう△違いによる快楽殺人が立て続けに何度も起こって旧世代を驚愕させたのだ。
それは、ここのクジラ殺しのそれ「可哀想だが食う」と全く根が同じである。
苛めを見ても「可哀想だが何もしない」と同じである。
可哀想だが”できない(無力感)”のと”しない(不作為、無関心)”のでは全く違う。
その根を作ったのは旧世代の善も悪も相対化した自己欺瞞、誤魔化しにある。
この△違いを抑制しているのは倫理ではなく、恥でもなく、捕まった場合の恐怖だけである。
クジラ殺しは善と悪の区別がつかない。
これが犯罪の土壌であることは論を待たない。
これは メッセージ 39212 (discover_200 さん)への返信です.
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