クジラの科学は生物学? 資源学?_3
投稿者: capt_paul_watson 投稿日時: 2008/06/09 08:11 投稿番号: [30986 / 63339]
もっとも、日本の水産業におけるこれまでの資源管理も、蓋を開けてみれば到底誉められたものではありません。スケトウダラなどの底魚にしろマイワシなどの浮魚にしろ、現行の漁獲量管理(TAC)制度さえうまく機能しておらず、それぞれの魚種の研究者の間では不信と批判が噴出しているのが実情です(インターネットを検索するだけでもたくさん引っかかるので、興味のある方は調べてみてください。当然ながら、皆さん捕鯨に関するスタンスとは無関係です)。
資源管理の成否は、対象魚種の性質・生態の違いというより、むしろ漁業者の側にサステイナビリティの必要性を理解し科学者の助言を受け入れる自己規制力があるかどうかにかかっています。秋田のハタハタのケースのように、数年間のモラトリアムさえ我慢できるモラルを備えていてこそ、初めてうまくいくものです。しかも、漁業の当事者だけではどうにもならない状況もあります。近隣や異種漁協間の軋轢、密漁、輸入品の台頭による圧迫、小売・消費者の無理な要求、不明な部分も多い魚種交代のサイクル、海流の変化やエルニーニョ、さらに地球温暖化の影響なども加わってきて、到底一筋縄ではいきません。そして、現場で働いている漁業者や研究者にも、そうした限界を十二分に理解している方々がおられます。それ故に、現実を見ない水産行政の無策に対する失望と不満の声も大きいのです(こちらも参照)。
翻ってみると、鯨類資源学は失敗の連続で成功例がありません。実績がありません。捕鯨産業をコントロールする能力を発揮した試しがないのです。そして、今後もその見込みがあるとは、筆者にはまったく思えません。なぜといって、たった1年すらモラトリアムを厳守できず、自らの過去を一切振り返ることなく、国民に対して資源管理の困難さを説明する責任を放棄し、あまりにも現実離れした楽観論ばかりを振りまいているからです。業界にべったり寄り添い、鯨肉の売上に依存しておきながら、今後商業捕鯨が再開されたとてまともに監督できるはずなどないことは、誰の目にも明らかです。C・W・ニコル氏の比喩を借りるなら、親猫(共同船舶)に魚の番ができるかどうか、仔猫(鯨研)に見張らせるようなものです。そのような鯨研流資源学を水産資源学の一部門、というより代表格として世界に向けて発信することは、日本の漁業資源管理が"なってない"ことをアピールするも同然です。管理能力の欠如によって、複数の野生動物種を次々と絶滅危惧種へと追いやり、未だに十分な回復が見られないという厳然たる事実がある以上、日本の鯨類学はむしろ水産資源学にとって最悪の問題児であり、汚点でしかありません。
「うちらがやってるのは生物学じゃなくて資源学ですから、別にネイチャーやサイエンスが載せてくれなくたって、科学として劣っているわけじゃないんですよ──」
水産学周辺の有識者を担ぎ出し、そんなふうに資源学としての体裁を繕ってPRをしたところで、実態が何も変わらない以上、日本の調査捕鯨の科学性に対する評価も変わりはしません。ジャンルを移し変えても、"お山の大将"が別のお山に移っただけ。世界の中で完全に孤立した"鯨髭の塔"に閉じこもるのをやめないことには、日本の鯨類学はいつまで経っても一流の科学とはみなされないでしょう。
国内各地でホエール・ウォッチングが興隆し、野生動物としてのクジラに対する市民の関心が高まる中、鯨類学の分野に進みたいという若者も増えてきています。しかし、残念ながら日本には、「欧米と同じように野生動物としてのクジラを純粋に研究したい」「フィールドで生きたクジラを観察し、まだまだ未知の部分が数多く残されている彼らの生態に迫りたい」という志を持った人材を受け入れる受け皿がまったく存在しません。捕鯨業界への忠誠を誓わないことには、日本で鯨類学者として食べていくことは不可能に近いのです。日本近海に生息する鯨種の多くで、生物学的な観点からの研究が海外に比べ大きく立ち遅れているというのに(こちらも参照)。
これもまた、捕鯨推進政策が招いた、日本における生物学の発展と国際貢献の足を引っ張るあまりにも大きな不利益といえるでしょう──。
《参考文献》
JanJanNews 調査捕鯨「減産」は妨害活動のせいなのか?
「捕鯨ナショナリズム煽る農水省の罪」(『AERA』'8/4/7)
資源管理の成否は、対象魚種の性質・生態の違いというより、むしろ漁業者の側にサステイナビリティの必要性を理解し科学者の助言を受け入れる自己規制力があるかどうかにかかっています。秋田のハタハタのケースのように、数年間のモラトリアムさえ我慢できるモラルを備えていてこそ、初めてうまくいくものです。しかも、漁業の当事者だけではどうにもならない状況もあります。近隣や異種漁協間の軋轢、密漁、輸入品の台頭による圧迫、小売・消費者の無理な要求、不明な部分も多い魚種交代のサイクル、海流の変化やエルニーニョ、さらに地球温暖化の影響なども加わってきて、到底一筋縄ではいきません。そして、現場で働いている漁業者や研究者にも、そうした限界を十二分に理解している方々がおられます。それ故に、現実を見ない水産行政の無策に対する失望と不満の声も大きいのです(こちらも参照)。
翻ってみると、鯨類資源学は失敗の連続で成功例がありません。実績がありません。捕鯨産業をコントロールする能力を発揮した試しがないのです。そして、今後もその見込みがあるとは、筆者にはまったく思えません。なぜといって、たった1年すらモラトリアムを厳守できず、自らの過去を一切振り返ることなく、国民に対して資源管理の困難さを説明する責任を放棄し、あまりにも現実離れした楽観論ばかりを振りまいているからです。業界にべったり寄り添い、鯨肉の売上に依存しておきながら、今後商業捕鯨が再開されたとてまともに監督できるはずなどないことは、誰の目にも明らかです。C・W・ニコル氏の比喩を借りるなら、親猫(共同船舶)に魚の番ができるかどうか、仔猫(鯨研)に見張らせるようなものです。そのような鯨研流資源学を水産資源学の一部門、というより代表格として世界に向けて発信することは、日本の漁業資源管理が"なってない"ことをアピールするも同然です。管理能力の欠如によって、複数の野生動物種を次々と絶滅危惧種へと追いやり、未だに十分な回復が見られないという厳然たる事実がある以上、日本の鯨類学はむしろ水産資源学にとって最悪の問題児であり、汚点でしかありません。
「うちらがやってるのは生物学じゃなくて資源学ですから、別にネイチャーやサイエンスが載せてくれなくたって、科学として劣っているわけじゃないんですよ──」
水産学周辺の有識者を担ぎ出し、そんなふうに資源学としての体裁を繕ってPRをしたところで、実態が何も変わらない以上、日本の調査捕鯨の科学性に対する評価も変わりはしません。ジャンルを移し変えても、"お山の大将"が別のお山に移っただけ。世界の中で完全に孤立した"鯨髭の塔"に閉じこもるのをやめないことには、日本の鯨類学はいつまで経っても一流の科学とはみなされないでしょう。
国内各地でホエール・ウォッチングが興隆し、野生動物としてのクジラに対する市民の関心が高まる中、鯨類学の分野に進みたいという若者も増えてきています。しかし、残念ながら日本には、「欧米と同じように野生動物としてのクジラを純粋に研究したい」「フィールドで生きたクジラを観察し、まだまだ未知の部分が数多く残されている彼らの生態に迫りたい」という志を持った人材を受け入れる受け皿がまったく存在しません。捕鯨業界への忠誠を誓わないことには、日本で鯨類学者として食べていくことは不可能に近いのです。日本近海に生息する鯨種の多くで、生物学的な観点からの研究が海外に比べ大きく立ち遅れているというのに(こちらも参照)。
これもまた、捕鯨推進政策が招いた、日本における生物学の発展と国際貢献の足を引っ張るあまりにも大きな不利益といえるでしょう──。
《参考文献》
JanJanNews 調査捕鯨「減産」は妨害活動のせいなのか?
「捕鯨ナショナリズム煽る農水省の罪」(『AERA』'8/4/7)
これは メッセージ 30985 (capt_paul_watson さん)への返信です.
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