宮沢賢治のビヂテリアン大祭_28
投稿者: capt_paul_watson 投稿日時: 2008/04/01 21:34 投稿番号: [18739 / 63339]
「異教論難に対し私はプログラムに許されてある通り宗教演説を以て答へやうと思ふのであります。
ヘルシウムマットン博士の御所説は実に三段論法の典型であります。まづ博士の神学を挙げて二度之を満場に承認せしめこれを以て大前提とし次にビヂテリアンが之に背くことを述べて小前提とし最后にビヂテリアンが故に神に背くことを断定し菜食なる小善の故に神に背くの大罪を犯すことを暗示致されました。実に簡潔明瞭なる所論であります。
然るにこの典型的論理に私が多少疑問あることは最遺憾に存ずる次第であります。
第一に博士の一九二〇年代に適するやうにクリスト教旧神学中より抽出されました簡潔の神学はたゞこの語だけで見ますればこれいかにも適当であります。今日此処に集まりました人人はあながちクリスト教徒ばかりではありません、されどいづれの宗教に於てもこれを云はんと欲するものであります。但しこれ敢て博士の神学でもありません。これ最普通のことであります。
第二にその神学の解釈に至っては私の最疑義を有する所であります。殊にも摂理の解釈に至っては到底博士は信者とは云はれませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈を誤ること我が神学博士のごときもの孰れの宗教に於ても又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を繰り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、その中の出来事はみな神の摂理である。総ては総てはみこゝろである。誠に畏き極みである。主の恵み讃ふべく主のみこゝろは測るべからざる哉、すべてこれ摂理である。み恵みである 善である。と斯うです。これを更に約言するとき之を更に約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中なるが故に善なりと、まあよろしいやうでありますが又ごくあぶないのであります。ここの善といふのは神より見たる善であります。絶対善であります。それをもし私たちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛を食ふ、摂理で善である、私が怒ってマットン博士をなぐる、摂理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事で神のみ旨は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげる、大へんよろしい、私が誰かにをどされて旅費を巻きあげ損ねさうになる、一発やる、その人が死ぬ、摂理で善である。もっと面白いのはここにビヂテリアンといふ一類が動物をたべないと云ってゐる。神の摂理である善である然るに何故にマットン博士は東洋流に形容するならば怒髪天を衝いてこれを駁撃するか。こゝに至って畢竟マットン博士の所説は自家撞着に終るものなることを示す。この結論は実にいゝ語であります。これ然しながら不肖私の語ではない、実にシカゴ畜産組合の肉食宣伝のパンフレット中に今朝拝見したものである。終に臨んで勇敢なるマットン博士に深甚なる敬意を寄せます。」
拍手は天幕をひるがへしさうでありました。
「大分露骨ですね、あんまり教育家らしくもないビヂテリアンですね。」と陳さんが大笑ひをしながら申しました。
処がその拍手のまだ鳴りやまないふちにもう異教徒席の中から瘠せぎすの神経質らしい人が祭壇にかけ上りました。その人は手をぶるぶる顫わせ眼もひきつってゐるやうに見えました。それでもコップの水を呑んで少し落ち着いたらしく一足進んで演説をはじめました。
ヘルシウムマットン博士の御所説は実に三段論法の典型であります。まづ博士の神学を挙げて二度之を満場に承認せしめこれを以て大前提とし次にビヂテリアンが之に背くことを述べて小前提とし最后にビヂテリアンが故に神に背くことを断定し菜食なる小善の故に神に背くの大罪を犯すことを暗示致されました。実に簡潔明瞭なる所論であります。
然るにこの典型的論理に私が多少疑問あることは最遺憾に存ずる次第であります。
第一に博士の一九二〇年代に適するやうにクリスト教旧神学中より抽出されました簡潔の神学はたゞこの語だけで見ますればこれいかにも適当であります。今日此処に集まりました人人はあながちクリスト教徒ばかりではありません、されどいづれの宗教に於てもこれを云はんと欲するものであります。但しこれ敢て博士の神学でもありません。これ最普通のことであります。
第二にその神学の解釈に至っては私の最疑義を有する所であります。殊にも摂理の解釈に至っては到底博士は信者とは云はれませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈を誤ること我が神学博士のごときもの孰れの宗教に於ても又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を繰り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、その中の出来事はみな神の摂理である。総ては総てはみこゝろである。誠に畏き極みである。主の恵み讃ふべく主のみこゝろは測るべからざる哉、すべてこれ摂理である。み恵みである 善である。と斯うです。これを更に約言するとき之を更に約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中なるが故に善なりと、まあよろしいやうでありますが又ごくあぶないのであります。ここの善といふのは神より見たる善であります。絶対善であります。それをもし私たちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛を食ふ、摂理で善である、私が怒ってマットン博士をなぐる、摂理で善である、なぜならこれは現象で摂理の中のでき事で神のみ旨は測るべからざる哉と、斯うなる、私が諸君にピストルを向けて諸君の帰国の旅費をみんな巻きあげる、大へんよろしい、私が誰かにをどされて旅費を巻きあげ損ねさうになる、一発やる、その人が死ぬ、摂理で善である。もっと面白いのはここにビヂテリアンといふ一類が動物をたべないと云ってゐる。神の摂理である善である然るに何故にマットン博士は東洋流に形容するならば怒髪天を衝いてこれを駁撃するか。こゝに至って畢竟マットン博士の所説は自家撞着に終るものなることを示す。この結論は実にいゝ語であります。これ然しながら不肖私の語ではない、実にシカゴ畜産組合の肉食宣伝のパンフレット中に今朝拝見したものである。終に臨んで勇敢なるマットン博士に深甚なる敬意を寄せます。」
拍手は天幕をひるがへしさうでありました。
「大分露骨ですね、あんまり教育家らしくもないビヂテリアンですね。」と陳さんが大笑ひをしながら申しました。
処がその拍手のまだ鳴りやまないふちにもう異教徒席の中から瘠せぎすの神経質らしい人が祭壇にかけ上りました。その人は手をぶるぶる顫わせ眼もひきつってゐるやうに見えました。それでもコップの水を呑んで少し落ち着いたらしく一足進んで演説をはじめました。
これは メッセージ 18738 (capt_paul_watson さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019607/ja7dfa4ha5afa58a5ijdd8n_1/18739.html