Re: テロに屈しないだけではテロは止まない
投稿者: immoralbeloved 投稿日時: 2006/08/29 16:52 投稿番号: [95574 / 118550]
>確かにテロに屈しないというだけではテロはやまないが、テロに屈したらテロがやむという証拠もないよね。
相変わらず二元論的にしか物事を考えられないようだが、「テロに屈しない」という考え方をよいものと捉えないのは、「テロに屈するのがよい」からではない。「テロに屈しない」という考え方が、“どんな暴力も許すきっかけ”になってしまうことを危惧するからこそ、「テロに屈しない」という考え方を《全肯定》する思考を否定するのである。いわば《全肯定否定派》だ。
箇条書きにしてみればいくらOxnardでもわかるだろう。さらにわかるのは、「テロに屈しない」を是とする考え方は、「テロに屈しない」を全肯定しない考え方よりも柔軟性を欠くということだ。
以下、
○は「テロに屈しない」否定派でも受け入れられる考え。
△は「テロに屈しない」否定派でも受け入れられるが慎重な検討が必要な考え。
×は「テロに屈しない」否定派では受け入れ難い考え。
「テロに屈しない」思考
↓
○テロには断固として対抗する
↓
△テロを監視するために基本的人権の制限が必要
↓
×テロリストは即処刑する、裁判は不要、人権も尊重せずによい
↓
×テロを駆逐するためのコラテラル・ダメージは止むを得ない
以下、
○は「テロに屈しない」肯定派でも受け入れられる考え。
△は「テロに屈しない」肯定派でも受け入れられるが慎重な検討が必要な考え。
×は「テロに屈しない」肯定派では受け入れ難い考え。
×「テロに屈する」思考
↓
×テロリストたちの要求を一部受け入れる
↓
×テロリストを裁判にかけ、人権も尊重する
↓
×テロを監視するためでも基本的人権は尊重すべき
↓
△テロ撲滅のためのコラテラル・ダメージは最小限に抑える
どうだ。「テロに屈しない」《全肯定派》のOxnardとしては納得がいく見方だろう。それとも、今度は俺が極端に《否定派》に傾いているように見えるか?だとすれば、それが認識の相対性というものだ。
両者の立場を上のように極端に(絶対的に)捉えていては、冷静に議論はできないし口論からは何も導かれはしない。《全肯定派》と見られるOxnardとして、たとえば上の「×」の数は納得がいかないか。それは《全肯定否定派》の表でも同じなのである。全てが「×」ではないのだ。
《全肯定否定派》の考え方は、「テロに屈する」ことを肯定することではなく、テロとどう折り合いをつけるかその方向性を模索することにある。そして、そうしたテロをの折り合いをつけることの模索を放棄した姿勢が、《全肯定派》にむしろ見受けられると見るわけだ。だから圧倒的に《全肯定》に傾倒していると見られるOxnardを危険視するのだろう。ところが、Oxnardが《全肯定否定》に傾倒していると見られる他者(俺も含む)を非難する理由も、実は同じではないのか。
テロという行為が絶対的悪というコンセンサスができあがっていても、その行為に対する行動についてはまだ世界では広く考えが一致していない。その対処法について、方法論についてこちらが正義・それ以外は悪という二元論的な考え方は、対話の道を閉ざすだけでなく、独善的な考えに凝り固まる結果しか生まないのではないか。
独善的な考えといえば、テロも独善的にテロの対象を悪と捉えて自らを正当化して行われる破壊行為である。テロに対する戦争も同様の独善に基づいて行われてはならないのである。独善を避けるために二元論に凝り固まらない、二つの考えの均衡を求める考え方。これを第3のアプローチ、Balanced Approachという。
テロをなくすために必要なアプローチは、この第三のアプローチではないのか。
まあ問題は、そのアプローチから何が導き出されるか、だがな。
相変わらず二元論的にしか物事を考えられないようだが、「テロに屈しない」という考え方をよいものと捉えないのは、「テロに屈するのがよい」からではない。「テロに屈しない」という考え方が、“どんな暴力も許すきっかけ”になってしまうことを危惧するからこそ、「テロに屈しない」という考え方を《全肯定》する思考を否定するのである。いわば《全肯定否定派》だ。
箇条書きにしてみればいくらOxnardでもわかるだろう。さらにわかるのは、「テロに屈しない」を是とする考え方は、「テロに屈しない」を全肯定しない考え方よりも柔軟性を欠くということだ。
以下、
○は「テロに屈しない」否定派でも受け入れられる考え。
△は「テロに屈しない」否定派でも受け入れられるが慎重な検討が必要な考え。
×は「テロに屈しない」否定派では受け入れ難い考え。
「テロに屈しない」思考
↓
○テロには断固として対抗する
↓
△テロを監視するために基本的人権の制限が必要
↓
×テロリストは即処刑する、裁判は不要、人権も尊重せずによい
↓
×テロを駆逐するためのコラテラル・ダメージは止むを得ない
以下、
○は「テロに屈しない」肯定派でも受け入れられる考え。
△は「テロに屈しない」肯定派でも受け入れられるが慎重な検討が必要な考え。
×は「テロに屈しない」肯定派では受け入れ難い考え。
×「テロに屈する」思考
↓
×テロリストたちの要求を一部受け入れる
↓
×テロリストを裁判にかけ、人権も尊重する
↓
×テロを監視するためでも基本的人権は尊重すべき
↓
△テロ撲滅のためのコラテラル・ダメージは最小限に抑える
どうだ。「テロに屈しない」《全肯定派》のOxnardとしては納得がいく見方だろう。それとも、今度は俺が極端に《否定派》に傾いているように見えるか?だとすれば、それが認識の相対性というものだ。
両者の立場を上のように極端に(絶対的に)捉えていては、冷静に議論はできないし口論からは何も導かれはしない。《全肯定派》と見られるOxnardとして、たとえば上の「×」の数は納得がいかないか。それは《全肯定否定派》の表でも同じなのである。全てが「×」ではないのだ。
《全肯定否定派》の考え方は、「テロに屈する」ことを肯定することではなく、テロとどう折り合いをつけるかその方向性を模索することにある。そして、そうしたテロをの折り合いをつけることの模索を放棄した姿勢が、《全肯定派》にむしろ見受けられると見るわけだ。だから圧倒的に《全肯定》に傾倒していると見られるOxnardを危険視するのだろう。ところが、Oxnardが《全肯定否定》に傾倒していると見られる他者(俺も含む)を非難する理由も、実は同じではないのか。
テロという行為が絶対的悪というコンセンサスができあがっていても、その行為に対する行動についてはまだ世界では広く考えが一致していない。その対処法について、方法論についてこちらが正義・それ以外は悪という二元論的な考え方は、対話の道を閉ざすだけでなく、独善的な考えに凝り固まる結果しか生まないのではないか。
独善的な考えといえば、テロも独善的にテロの対象を悪と捉えて自らを正当化して行われる破壊行為である。テロに対する戦争も同様の独善に基づいて行われてはならないのである。独善を避けるために二元論に凝り固まらない、二つの考えの均衡を求める考え方。これを第3のアプローチ、Balanced Approachという。
テロをなくすために必要なアプローチは、この第三のアプローチではないのか。
まあ問題は、そのアプローチから何が導き出されるか、だがな。
これは メッセージ 95546 (oxnardnokakashi さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019567/bpa5a4a5ia5afipno9tbbh_1/95574.html