Re: 安全保障か人権人道か?(人間編)
投稿者: nanntyattesamurai 投稿日時: 2006/02/27 12:18 投稿番号: [88267 / 118550]
1.「個と全体」
>あなたがおっしゃっているのは「認知」「存在」論ですね。その理論自体は理解できるし、科学的なんですが、
>これと「安全保障」や「国民の自由、権利」が、どう関係するのか、いまいち理解不能です。
これの答えは極めて単純です。
「人が幸福になる(正しくは幸福を感じる)」これを前提として
様々なシステムが作られているのです。
個の幸せを大前提にしないで
システムだけを論拠にする行為は
「それ自体を目的化する」行為ではないかと思います。
(幸福の私的定義)
栗本慎一郎の「パンサル」でも定義されておりますが、
「人は快感(脳内の麻薬物質反応)に導かれて行動する」
メカニズム的にはこの様に解釈して良いと思います。
これを、善の視点で表現すると「人は幸福を求める」になります。
この幸福を感じるのは、あくまでも個に依存します。
2.人間にスタンスを置く
>私の言う「人間」論は、「人」の「間」、つまりその「相違」自体を認識するところから出発します。
>「認知」ではない「存在」としての「全体」は、個人間で統一されたモデルに成り得ないことを前提とし、
>「個と全体」ではなく「個と個」の関係性を追求しようというものです。
思い、考え、感じるのはあくまでも人であり、個であります。
すなわち、人は自分が作り出した概念界(心の中のスクリーン)に
自分の姿を含めた、認知可能な風景を描き
その中の主人公として、考え、思考し判断し、感じているのです。
結論として、そのスクリーンの中の自分を
どこまで正確に、緻密に、客観的に理解できるか
それに重きを置くのが、禅の悟りだと考えます。
ハタミ元大統領が説いていた、イルファーンの鏡から抜け出る行為と同義です。
少々話が難しくなって来ているので
簡単明瞭に表現すると下記の様になります。
「スクリーンの中の自分を、どこまで理解しているかが肝心で
自分の事さえ理解できない者は、他人を理解する事もできない。」
「自分で自分の姿を理解する、そのレベルに応じてしか、他人の事も理解出来ない」
理由は、スクリーンの中の主人公(自分)が、他人を理解しようとした場合
まず、自分のスクリーンに他人の像(姿)を写し
次ぎに、自分の理解できる尺度でその像を測る。
これによって、自分の理解可能な情報として処理する。
この在り方が原則だと考えるからです。
結果としてどんなに努力しても、
自分の中に無い尺度を使用し
他人を測る事は出来ないと言う事が類推できます。
例えば「分かっているつもりだったが、理解してあげられていなかった」等は
上記が起因していると考えております。
従って、人と人との関係性も
その根源は、自分の姿をどこまで正確に把握しているかに左右されるのです。
(私見で言えば、国も会社も、自国家・自社を正確に把握するのが基本です)
言い方を変えれば、自分の事さえ理解できていない人間が
どうやって他人に「自分の事を伝えるのか」?? ・・・ って事ですね。
結論ですが、国や社会に「人間と言う個」が介在している以上
国にも社会にも、上記は関係して来ると思います。
「国の中で、個と国の関係性が良好である事」
その延長上に「国と国連の良好な関係がある」と考えます。
さらにもう一つ、同じレベルの国同士と表現した場合
どの基準を持って同じレベルと判断するのか、明確にされておりません。
同じ国と国と言う、「国家と言う枠組みだけで同じレベル」と論じてみても
その国のレベルの違いにより(政治・経済・文化・宗教・民度etc)で、
またぞろ争いの火種を作りかねません。
そもそも、国連の機能不全が
性悪説を土台とした国際社会と、
国のレベル(様々な要因)の違いにより
同じ基準で考えられない程、国家のレベルそのものが違いすぎる
この2点に起因するのではないでしょうか??
んんん ・・・・ 禅にイルファーンか??
私の書く事が、ドンドン電波チックになって来ているなぁ (^^ゞ
まあ、今回はここまで デハデハ
>あなたがおっしゃっているのは「認知」「存在」論ですね。その理論自体は理解できるし、科学的なんですが、
>これと「安全保障」や「国民の自由、権利」が、どう関係するのか、いまいち理解不能です。
これの答えは極めて単純です。
「人が幸福になる(正しくは幸福を感じる)」これを前提として
様々なシステムが作られているのです。
個の幸せを大前提にしないで
システムだけを論拠にする行為は
「それ自体を目的化する」行為ではないかと思います。
(幸福の私的定義)
栗本慎一郎の「パンサル」でも定義されておりますが、
「人は快感(脳内の麻薬物質反応)に導かれて行動する」
メカニズム的にはこの様に解釈して良いと思います。
これを、善の視点で表現すると「人は幸福を求める」になります。
この幸福を感じるのは、あくまでも個に依存します。
2.人間にスタンスを置く
>私の言う「人間」論は、「人」の「間」、つまりその「相違」自体を認識するところから出発します。
>「認知」ではない「存在」としての「全体」は、個人間で統一されたモデルに成り得ないことを前提とし、
>「個と全体」ではなく「個と個」の関係性を追求しようというものです。
思い、考え、感じるのはあくまでも人であり、個であります。
すなわち、人は自分が作り出した概念界(心の中のスクリーン)に
自分の姿を含めた、認知可能な風景を描き
その中の主人公として、考え、思考し判断し、感じているのです。
結論として、そのスクリーンの中の自分を
どこまで正確に、緻密に、客観的に理解できるか
それに重きを置くのが、禅の悟りだと考えます。
ハタミ元大統領が説いていた、イルファーンの鏡から抜け出る行為と同義です。
少々話が難しくなって来ているので
簡単明瞭に表現すると下記の様になります。
「スクリーンの中の自分を、どこまで理解しているかが肝心で
自分の事さえ理解できない者は、他人を理解する事もできない。」
「自分で自分の姿を理解する、そのレベルに応じてしか、他人の事も理解出来ない」
理由は、スクリーンの中の主人公(自分)が、他人を理解しようとした場合
まず、自分のスクリーンに他人の像(姿)を写し
次ぎに、自分の理解できる尺度でその像を測る。
これによって、自分の理解可能な情報として処理する。
この在り方が原則だと考えるからです。
結果としてどんなに努力しても、
自分の中に無い尺度を使用し
他人を測る事は出来ないと言う事が類推できます。
例えば「分かっているつもりだったが、理解してあげられていなかった」等は
上記が起因していると考えております。
従って、人と人との関係性も
その根源は、自分の姿をどこまで正確に把握しているかに左右されるのです。
(私見で言えば、国も会社も、自国家・自社を正確に把握するのが基本です)
言い方を変えれば、自分の事さえ理解できていない人間が
どうやって他人に「自分の事を伝えるのか」?? ・・・ って事ですね。
結論ですが、国や社会に「人間と言う個」が介在している以上
国にも社会にも、上記は関係して来ると思います。
「国の中で、個と国の関係性が良好である事」
その延長上に「国と国連の良好な関係がある」と考えます。
さらにもう一つ、同じレベルの国同士と表現した場合
どの基準を持って同じレベルと判断するのか、明確にされておりません。
同じ国と国と言う、「国家と言う枠組みだけで同じレベル」と論じてみても
その国のレベルの違いにより(政治・経済・文化・宗教・民度etc)で、
またぞろ争いの火種を作りかねません。
そもそも、国連の機能不全が
性悪説を土台とした国際社会と、
国のレベル(様々な要因)の違いにより
同じ基準で考えられない程、国家のレベルそのものが違いすぎる
この2点に起因するのではないでしょうか??
んんん ・・・・ 禅にイルファーンか??
私の書く事が、ドンドン電波チックになって来ているなぁ (^^ゞ
まあ、今回はここまで デハデハ
これは メッセージ 88204 (bonno_216 さん)への返信です.
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