Re: 純粋と不純
投稿者: bonno_216 投稿日時: 2006/01/18 08:38 投稿番号: [87088 / 118550]
>要するに、bonno_216さんの側は、「オレが正しい、ゆえに
>オマエは間違っている」という偏りをどうやって排除する
>工夫をしているか、知りたいっていうと話が早い・・・かな?
時事に関する意見や政策に関する主張などは、どれが正しくて、どれが間違いなのか?…そう簡単に結論できるものではありません。俗にいう「見解の違い」という奴で、ぶっちゃけた話、私は「自分と違う見解を持った人」の存在を否定しようとは思いません。
事実認識にしても、閉ざされた共同体の内部では(先進国と言われる社会でも)、伝説、神話、因習など、非科学的な「共通認識」がまだまだ幅をきかせているし、それ自体は、重大な対立やトラブルに繋がらない限り、悪いことではないと思っています。
たとえば宗教家は、自身の「神」の存在を証明できませんが、信者のコミュニティにおいては「証明」することよりも「信じる」ことの方に、より大きな価値を認めます。
そのような、閉ざされたコミュニティ内部の人に、外部から唐突に「神様なんて居ないんだよ。それは迷信というものだ」なんて諭しても、まったくの「野暮」と言うものでしょう。
正義とか真実とかも、乱暴な言い方をすれば、ここでいう「神」と同じです。それぞれの閉ざされた共同体内部に「彼らの正義」「彼らの真実」が存在し、それらは緩やかに対立しながら、現実的には「共存」しています。
問題は、そういう「異なったアイデンティティ」が「閉ざされた共同体」内部から拡散して「開かれた社会」と衝突する時です。たとえば「国際社会」という開かれた場では、米国の常識、日本の常識、イラクの常識など「閉ざされた共同体内部における『共通認識』」など、何の役にも立ちません。ましてや独りよがりな「普遍的正義」は言うに及ばずです。
そこで、先鋭的な対立を避けるために必要なことは、より低レベルで、より広い範囲をカバーする「共通認識」です。ユークリッド哲学でいう「1+1=2」(これも哲学的には絶対真実ではありませんが)など、異なったアイデンティティを持つ人々の間でも、共通して認めることのできる「事実」を土台とし、共存のためのルールを定め、そのルールさえ守るならば、より高レベルな認識は「共通」とならなくても良いと諦観することです。
つまり、言い古された表現ですが「違いを認めあい、共存を模索する」ってことですね。
アカデミズムやメディア・リテラシーの立場は、異なったアイデンティティを強制的に統合するものではなく、とりあえずルールによって先鋭的な対立を回避した上で、より高レベルかつ、より広範囲の「共通認識」を、じっくりと慎重に構築していこうとする努力です。
「オレの言うことは正しい、しかしオマエの言うことも(理解できないが)正しいのだろう」とした上で、「さあ、では『共存』の方法を探ろうじゃないか」ということで「議論」が成り立ちます。自分だけが正しいとすれば、議論ではなく喧嘩になります。
時事情報は、大手メディアであろうとアングラであろうと、本質的に「不確か」なものであり、「作為的」なものでもあります。したがって情報から事実を探りあてるには膨大な時間と労力が必要となり、何かの記事や情報で以て、何かを証明するなどということは、とうてい不可能なのです。
一方、「議論」は、より高レベル・広範囲の「共通認識」を構築しようとする努力ですが、そこで構築される「共通認識」は「事実」と置き換えても良いでしょう。つまり、人は「事実を元に議論」するのではなく「情報を元に議論し、事実を探る」のだと考えれば、「オレが正しい、ゆえにオマエは間違っている」という論法には陥らないだろうと思っています。
>オマエは間違っている」という偏りをどうやって排除する
>工夫をしているか、知りたいっていうと話が早い・・・かな?
時事に関する意見や政策に関する主張などは、どれが正しくて、どれが間違いなのか?…そう簡単に結論できるものではありません。俗にいう「見解の違い」という奴で、ぶっちゃけた話、私は「自分と違う見解を持った人」の存在を否定しようとは思いません。
事実認識にしても、閉ざされた共同体の内部では(先進国と言われる社会でも)、伝説、神話、因習など、非科学的な「共通認識」がまだまだ幅をきかせているし、それ自体は、重大な対立やトラブルに繋がらない限り、悪いことではないと思っています。
たとえば宗教家は、自身の「神」の存在を証明できませんが、信者のコミュニティにおいては「証明」することよりも「信じる」ことの方に、より大きな価値を認めます。
そのような、閉ざされたコミュニティ内部の人に、外部から唐突に「神様なんて居ないんだよ。それは迷信というものだ」なんて諭しても、まったくの「野暮」と言うものでしょう。
正義とか真実とかも、乱暴な言い方をすれば、ここでいう「神」と同じです。それぞれの閉ざされた共同体内部に「彼らの正義」「彼らの真実」が存在し、それらは緩やかに対立しながら、現実的には「共存」しています。
問題は、そういう「異なったアイデンティティ」が「閉ざされた共同体」内部から拡散して「開かれた社会」と衝突する時です。たとえば「国際社会」という開かれた場では、米国の常識、日本の常識、イラクの常識など「閉ざされた共同体内部における『共通認識』」など、何の役にも立ちません。ましてや独りよがりな「普遍的正義」は言うに及ばずです。
そこで、先鋭的な対立を避けるために必要なことは、より低レベルで、より広い範囲をカバーする「共通認識」です。ユークリッド哲学でいう「1+1=2」(これも哲学的には絶対真実ではありませんが)など、異なったアイデンティティを持つ人々の間でも、共通して認めることのできる「事実」を土台とし、共存のためのルールを定め、そのルールさえ守るならば、より高レベルな認識は「共通」とならなくても良いと諦観することです。
つまり、言い古された表現ですが「違いを認めあい、共存を模索する」ってことですね。
アカデミズムやメディア・リテラシーの立場は、異なったアイデンティティを強制的に統合するものではなく、とりあえずルールによって先鋭的な対立を回避した上で、より高レベルかつ、より広範囲の「共通認識」を、じっくりと慎重に構築していこうとする努力です。
「オレの言うことは正しい、しかしオマエの言うことも(理解できないが)正しいのだろう」とした上で、「さあ、では『共存』の方法を探ろうじゃないか」ということで「議論」が成り立ちます。自分だけが正しいとすれば、議論ではなく喧嘩になります。
時事情報は、大手メディアであろうとアングラであろうと、本質的に「不確か」なものであり、「作為的」なものでもあります。したがって情報から事実を探りあてるには膨大な時間と労力が必要となり、何かの記事や情報で以て、何かを証明するなどということは、とうてい不可能なのです。
一方、「議論」は、より高レベル・広範囲の「共通認識」を構築しようとする努力ですが、そこで構築される「共通認識」は「事実」と置き換えても良いでしょう。つまり、人は「事実を元に議論」するのではなく「情報を元に議論し、事実を探る」のだと考えれば、「オレが正しい、ゆえにオマエは間違っている」という論法には陥らないだろうと思っています。
これは メッセージ 87056 (hoop_job さん)への返信です.
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