「戦後イラクにおける民主化」酒井啓子①
投稿者: imonoyamashotengai 投稿日時: 2005/11/26 04:22 投稿番号: [84908 / 118550]
「戦後イラクにおける民主化」2005年1月移行国会選挙を中心に
酒井啓子(「湾岸アラブと民主主義」日本評論社)
「安全保障が民主化政策に優先する」という発想は、米政権が中東において
いくつかの王政、首長政や権威主義体制を支援する、といった政策に反映されて
いるとみなすことができよう。
政治的自由化として無制限に大衆に政治参加を提供することが、同盟国の
不安定化を招き、米国の安全保障を害することになれば、米政権は「民主化」を
二の次にしても安定を志向するというのがぺセニー(ニューメキシコ大学)の
議論である。
イラク戦争は従来の米国の対中東政策を一変させるものであった。しかし、
その一変した米国の対中東政策においても「安全保障」と「親・自由化」政策の
間に矛盾が生じた際には、米国の「民主化」方針は後退している。
「独裁からの解放」は自動的に「民主主義の推進」を意味するものではなかった
CPAはイラク戦争後即座に設立されることが期待されたイラク暫定政府の
立ち上げを棚上げし、占領統治を一年間続けた。
暫定政府に主権が移譲されることになったのも、激化した始めた反米攻撃を
受けて、CPAがようやく決断したためである。
米政権のイラク戦後政策を一言で評価すれば、戦後すぐに親米的民主主義政権
をイラク国内に布置することに、米国は失敗したし、その準備も充分にして
いなかった、ということである。
CPAに真っ向から反対したシスターニ師の直接選挙要求により、
CPAの間接選挙方式は断念せざるを得なくなる。
この時期、米の戦後イラク統治方針が暗礁に乗り上げつつあったことが、
国連の役割の見直しに結びついたことは指摘しておく必要があろう。
国連のアドバイザーが反対したにもかかわらず、イラク独立選挙委員会が
移行国民議会選挙に在外イラク人の投票も認める。
2004年8月の国民大会
こうした大規模な各派代表者会議の開催は、イラク戦争終結から数週間以内に
実施することが開戦前に米政権によって約束されていたものであったが、
CPA統治開始以降、棚上げされてきた。
国民大会は当初定員を1000人としていた。
地方選出代表団の「選出」方法は各地域に任されていたが、多くの県では不完全
ながらも選挙によって県代表団を選ぶことを好み、各地で自発的な選挙が実施さ
れた。
県代表軽視、というより「民選」代表者に対する軽視のやり方は、国民大会が
実質的には亡命政治勢力のポスト確保の場として利用された、というイラク戦後
の「民主化」の二重性が如実に表れているといえよう。
移行国民議会選挙までのイラクにおける擬似代議制の導入過程は、国民の政治
参加の場の確保という名目のもとに、実質的には米国主導の戦後体制に登用され
た亡命勢力を中心とした新興政治勢力が、選挙に向けて着々と自派勢力を確立す
る機会として利用されていた。
配給の為に作成された1390万人を記録する住民台帳は、イラク戦争以前のデータ
これが、選挙の有権者登録の元となった。
フセイン政権下でも形式的な議会選挙が実施されてきたが、
そこでは一県を1〜13の選挙区に分けて、1〜5人を選出する中選挙区制だった。
酒井啓子(「湾岸アラブと民主主義」日本評論社)
「安全保障が民主化政策に優先する」という発想は、米政権が中東において
いくつかの王政、首長政や権威主義体制を支援する、といった政策に反映されて
いるとみなすことができよう。
政治的自由化として無制限に大衆に政治参加を提供することが、同盟国の
不安定化を招き、米国の安全保障を害することになれば、米政権は「民主化」を
二の次にしても安定を志向するというのがぺセニー(ニューメキシコ大学)の
議論である。
イラク戦争は従来の米国の対中東政策を一変させるものであった。しかし、
その一変した米国の対中東政策においても「安全保障」と「親・自由化」政策の
間に矛盾が生じた際には、米国の「民主化」方針は後退している。
「独裁からの解放」は自動的に「民主主義の推進」を意味するものではなかった
CPAはイラク戦争後即座に設立されることが期待されたイラク暫定政府の
立ち上げを棚上げし、占領統治を一年間続けた。
暫定政府に主権が移譲されることになったのも、激化した始めた反米攻撃を
受けて、CPAがようやく決断したためである。
米政権のイラク戦後政策を一言で評価すれば、戦後すぐに親米的民主主義政権
をイラク国内に布置することに、米国は失敗したし、その準備も充分にして
いなかった、ということである。
CPAに真っ向から反対したシスターニ師の直接選挙要求により、
CPAの間接選挙方式は断念せざるを得なくなる。
この時期、米の戦後イラク統治方針が暗礁に乗り上げつつあったことが、
国連の役割の見直しに結びついたことは指摘しておく必要があろう。
国連のアドバイザーが反対したにもかかわらず、イラク独立選挙委員会が
移行国民議会選挙に在外イラク人の投票も認める。
2004年8月の国民大会
こうした大規模な各派代表者会議の開催は、イラク戦争終結から数週間以内に
実施することが開戦前に米政権によって約束されていたものであったが、
CPA統治開始以降、棚上げされてきた。
国民大会は当初定員を1000人としていた。
地方選出代表団の「選出」方法は各地域に任されていたが、多くの県では不完全
ながらも選挙によって県代表団を選ぶことを好み、各地で自発的な選挙が実施さ
れた。
県代表軽視、というより「民選」代表者に対する軽視のやり方は、国民大会が
実質的には亡命政治勢力のポスト確保の場として利用された、というイラク戦後
の「民主化」の二重性が如実に表れているといえよう。
移行国民議会選挙までのイラクにおける擬似代議制の導入過程は、国民の政治
参加の場の確保という名目のもとに、実質的には米国主導の戦後体制に登用され
た亡命勢力を中心とした新興政治勢力が、選挙に向けて着々と自派勢力を確立す
る機会として利用されていた。
配給の為に作成された1390万人を記録する住民台帳は、イラク戦争以前のデータ
これが、選挙の有権者登録の元となった。
フセイン政権下でも形式的な議会選挙が実施されてきたが、
そこでは一県を1〜13の選挙区に分けて、1〜5人を選出する中選挙区制だった。
これは メッセージ 84821 (imonoyamashotengai さん)への返信です.
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