フセイン政権打倒の大義 2
投稿者: theme_from_papillon 投稿日時: 2005/09/02 14:42 投稿番号: [78969 / 118550]
>安保理での議論で、
もしパウエル氏が「9・11を体験した我々から見れば、イラクが
武力を用いても排除しなければならない脅威に映るのだ」って言っていれば、当然、他の
理事国から「気持ちは 分かるが、イラクの脅威については客観的に判断すべきですよ」と
窘められていたでしょうね。
もちろん、ドピルバン氏が「イラクに利権を持っている我々から見れば、イラクが武力を用い
ても排除すべき脅威とは映らない」なんて言えば、やっぱり他の理事国から「あんた、何の話
をしてるの?」とバカにされたでしょう。
それは当たり前です。
人間は他を説得するとき、相手の立場に立って説得した方が効果がありますから。
>安保理の議論では、「客観的に見て、イラクは武力を行使してでも排除すべき脅威であるか否か?」
が話し合われたのであり、それに対し11カ国の理事国と、大半の国連加盟国が「否」という結論を
出したのです。
安保理の立場に立った「客観性」と米国民の一人一人が感じる「客観性」とは大きく異なります。
客観的な見解を形成する重要な要素としての痛みや悲しみ、テロの恐怖といったものへの強弱が
違うからです。
裁判において、ある集団の訴えが退けられたとします。
この集団は、我々の見解こそ、我々の立場を詳細に知れば、我々と同じ状況下に置かれた者が
当然行き着く客観的な見解であると考えるでしょう。だが、裁判官は一方の側だけの立場に
立つわけにはいきませんから、双方の立場を吟味して裁決を下すわけですが、それは確かに
一般の国民からみれば、裁判所が判断した見解が客観性のあるものと判断される傾向があります。
裁判所の立場と一般の国民の立場とは概ね同じであるとみなされているからです。
さらに国家は裁判所の裁決に強制力を伴った保証をしています。
ところが、安保理は強制力を持ちえません。
一部の人間が安保理に強制力を持たせようと呼びかけたところで、安保理には強大な軍事力が
ありませんから、いざとなると機能しない。安保理が強制力を持つようになるのは、自由が
浸透し、国家間の紛争が話し合えばわかるような信頼で結ばれた後だろう。
>>自由が世界に浸透していく過程は、けっして平坦なものではない。
>自由は浸透していきませんよ。浸透するのは「抑圧」です。
民主主義制度を含め、あらゆる社会制度は、人間が生来的に自由であることを認識した上で、
「社会の維持と発展のために、どのような自由を、どのような手続きで抑圧すべきか」という
ことを規定するものなのです。
誰もが自由に振舞えば、結局、自由ではなくなります。
外出もままならない(笑)
ここで言うところの自由とは、共同体内の個々人の自由を最大限達成する政治的な制度のことです。
それにはもちろん、抑制も必要でしょう。
>独裁体制と民主主義制度を対称に置くのではなく、産業や流通、経済のバリエーションが幾つも
あるように、政治体制のバリエーションの一種であると捉えれるならば、独裁者が民主主義を
阻害するとか、民主主義が独裁体制を打倒する…なんて単純な発想は出てこないでしょう。
欧米における民主主義の誕生と発展は民主主義が独裁を駆逐することによって成し遂げられました。
>大きく分けても、民主主義には個人主義の発展形としての民主主義と、社会主義の発展形として
の民主主義があります。
共産主義国家の1党独裁などは、欧米や日本の民主主義より自由度が低いことはほとんどの人間が
認めていると思う。
武力を用いても排除しなければならない脅威に映るのだ」って言っていれば、当然、他の
理事国から「気持ちは 分かるが、イラクの脅威については客観的に判断すべきですよ」と
窘められていたでしょうね。
もちろん、ドピルバン氏が「イラクに利権を持っている我々から見れば、イラクが武力を用い
ても排除すべき脅威とは映らない」なんて言えば、やっぱり他の理事国から「あんた、何の話
をしてるの?」とバカにされたでしょう。
それは当たり前です。
人間は他を説得するとき、相手の立場に立って説得した方が効果がありますから。
>安保理の議論では、「客観的に見て、イラクは武力を行使してでも排除すべき脅威であるか否か?」
が話し合われたのであり、それに対し11カ国の理事国と、大半の国連加盟国が「否」という結論を
出したのです。
安保理の立場に立った「客観性」と米国民の一人一人が感じる「客観性」とは大きく異なります。
客観的な見解を形成する重要な要素としての痛みや悲しみ、テロの恐怖といったものへの強弱が
違うからです。
裁判において、ある集団の訴えが退けられたとします。
この集団は、我々の見解こそ、我々の立場を詳細に知れば、我々と同じ状況下に置かれた者が
当然行き着く客観的な見解であると考えるでしょう。だが、裁判官は一方の側だけの立場に
立つわけにはいきませんから、双方の立場を吟味して裁決を下すわけですが、それは確かに
一般の国民からみれば、裁判所が判断した見解が客観性のあるものと判断される傾向があります。
裁判所の立場と一般の国民の立場とは概ね同じであるとみなされているからです。
さらに国家は裁判所の裁決に強制力を伴った保証をしています。
ところが、安保理は強制力を持ちえません。
一部の人間が安保理に強制力を持たせようと呼びかけたところで、安保理には強大な軍事力が
ありませんから、いざとなると機能しない。安保理が強制力を持つようになるのは、自由が
浸透し、国家間の紛争が話し合えばわかるような信頼で結ばれた後だろう。
>>自由が世界に浸透していく過程は、けっして平坦なものではない。
>自由は浸透していきませんよ。浸透するのは「抑圧」です。
民主主義制度を含め、あらゆる社会制度は、人間が生来的に自由であることを認識した上で、
「社会の維持と発展のために、どのような自由を、どのような手続きで抑圧すべきか」という
ことを規定するものなのです。
誰もが自由に振舞えば、結局、自由ではなくなります。
外出もままならない(笑)
ここで言うところの自由とは、共同体内の個々人の自由を最大限達成する政治的な制度のことです。
それにはもちろん、抑制も必要でしょう。
>独裁体制と民主主義制度を対称に置くのではなく、産業や流通、経済のバリエーションが幾つも
あるように、政治体制のバリエーションの一種であると捉えれるならば、独裁者が民主主義を
阻害するとか、民主主義が独裁体制を打倒する…なんて単純な発想は出てこないでしょう。
欧米における民主主義の誕生と発展は民主主義が独裁を駆逐することによって成し遂げられました。
>大きく分けても、民主主義には個人主義の発展形としての民主主義と、社会主義の発展形として
の民主主義があります。
共産主義国家の1党独裁などは、欧米や日本の民主主義より自由度が低いことはほとんどの人間が
認めていると思う。
これは メッセージ 78930 (bonno_216 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019567/bpa5a4a5ia5afipno9tbbh_1/78969.html