沖縄戦
投稿者: dorawasabi5001 投稿日時: 2005/07/02 00:32 投稿番号: [74142 / 118550]
東京新聞・・記憶から・・
★<4>投降促す住民“虐殺”
「米軍に追い詰められて、あの断がいを降りた」と指さす瑞慶覧さん。米軍に救出されるまで、1週間をがけ下で過ごした=沖縄県糸満市の摩文仁の丘で
沖縄本島南端、今は平和祈念公園として整備された糸満市の「摩文仁(まぶに)の丘」で一九四五年六月二十三日、沖縄防衛の「第三二軍」司令官牛島満中将は自決し、日本軍は沖縄戦での組織的戦闘を終える。
本島南部、大里村国民学校の六年生だった瑞慶覧長方(ずけらん・ちょうほう)さん(72)は、母や姉弟らと砲撃を逃れてたどり着いたこの丘で、
【米軍に追いつめられた日本兵が、住民を切り殺すのを見た。】
その体験が「陸軍中佐」になることを夢見ていた軍国少年の戦後の生き方を決めた。
二十日朝。南部に逃げてきた約二万人であふれかえる摩文仁の丘は、砲弾がやみ、不気味な静けさを漂わせていた。老人、子ども、女性、兵士…。米軍はあと六百メートルの地点まで迫っていたが、後方は断がいと大海原。身を隠す場所もなく、誰もが草木や岩の陰で身を固くしていた。
米軍陣地から、一人の男性が歩いてくるのが、ふと見えた。「パンツ一枚で、白旗を振りながら、ね。沖縄の方言を交えてしゃべる人でした」
男性は言った。「心配しないでください。アメリカは殺したりはしません。男は服を脱いで。女の人はそのままでいいです」。
【男性は投降を呼びかける伝令を担った捕虜だった。】
【住民たちが耳を傾けはじめたその時、岩陰から三人の日本兵が刀を抜いて飛び出した。「スパイ野郎、売国奴!! おまえのようなやつがいるから負けるのだ!!」。兵士たちは男性の首を切りつけ、刀で何度も突き刺した。】
修羅場と化した丘に米軍の砲撃が一斉に始まる。「投降の意思なし」と判断されたのだ。火炎放射器がなめるように火を吐いた。悲鳴と絶叫の中で、すべてが炎に包まれていった。
三十メートルもの断がいを一家で命がけで滑り降り、九死に一生を得た瑞慶覧さんは振り返る。
「投降すれば多くの命が助かった。日本兵が殺害したのは、あの男性だけではなかったのです」
■ ■
沖縄戦に関する教科書検定が最初に問題となったのは八二年のことだ。
「日本軍によって沖縄県民が殺害された」という記述に、
【当時の文部省は何度も修正を要求する。日本軍による住民虐殺を「疑義がある」と否定したのだ。】
「私が見たものは、何だったのか」。
戦後、教師となり、沖縄社会大衆党の県議に転身した瑞慶覧さんは激しい怒りに駆られ、
【第三次家永教科書訴訟の証言者となるとともに、自ら「住民虐殺」の証言の聞き取り調査を始めた。】
★<4>投降促す住民“虐殺”
「米軍に追い詰められて、あの断がいを降りた」と指さす瑞慶覧さん。米軍に救出されるまで、1週間をがけ下で過ごした=沖縄県糸満市の摩文仁の丘で
沖縄本島南端、今は平和祈念公園として整備された糸満市の「摩文仁(まぶに)の丘」で一九四五年六月二十三日、沖縄防衛の「第三二軍」司令官牛島満中将は自決し、日本軍は沖縄戦での組織的戦闘を終える。
本島南部、大里村国民学校の六年生だった瑞慶覧長方(ずけらん・ちょうほう)さん(72)は、母や姉弟らと砲撃を逃れてたどり着いたこの丘で、
【米軍に追いつめられた日本兵が、住民を切り殺すのを見た。】
その体験が「陸軍中佐」になることを夢見ていた軍国少年の戦後の生き方を決めた。
二十日朝。南部に逃げてきた約二万人であふれかえる摩文仁の丘は、砲弾がやみ、不気味な静けさを漂わせていた。老人、子ども、女性、兵士…。米軍はあと六百メートルの地点まで迫っていたが、後方は断がいと大海原。身を隠す場所もなく、誰もが草木や岩の陰で身を固くしていた。
米軍陣地から、一人の男性が歩いてくるのが、ふと見えた。「パンツ一枚で、白旗を振りながら、ね。沖縄の方言を交えてしゃべる人でした」
男性は言った。「心配しないでください。アメリカは殺したりはしません。男は服を脱いで。女の人はそのままでいいです」。
【男性は投降を呼びかける伝令を担った捕虜だった。】
【住民たちが耳を傾けはじめたその時、岩陰から三人の日本兵が刀を抜いて飛び出した。「スパイ野郎、売国奴!! おまえのようなやつがいるから負けるのだ!!」。兵士たちは男性の首を切りつけ、刀で何度も突き刺した。】
修羅場と化した丘に米軍の砲撃が一斉に始まる。「投降の意思なし」と判断されたのだ。火炎放射器がなめるように火を吐いた。悲鳴と絶叫の中で、すべてが炎に包まれていった。
三十メートルもの断がいを一家で命がけで滑り降り、九死に一生を得た瑞慶覧さんは振り返る。
「投降すれば多くの命が助かった。日本兵が殺害したのは、あの男性だけではなかったのです」
■ ■
沖縄戦に関する教科書検定が最初に問題となったのは八二年のことだ。
「日本軍によって沖縄県民が殺害された」という記述に、
【当時の文部省は何度も修正を要求する。日本軍による住民虐殺を「疑義がある」と否定したのだ。】
「私が見たものは、何だったのか」。
戦後、教師となり、沖縄社会大衆党の県議に転身した瑞慶覧さんは激しい怒りに駆られ、
【第三次家永教科書訴訟の証言者となるとともに、自ら「住民虐殺」の証言の聞き取り調査を始めた。】
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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