honey_badger_21さんへ
投稿者: bonno_216 投稿日時: 2005/06/03 14:33 投稿番号: [72990 / 118550]
>自由に対してこれほどまでに情熱を燃やす国民性
>というものを、他国の人は理解できないかもしれない。
ちょっとトピずれになりますが、今回は「自由」についてお話してみたいと思います。
「自由」は元来、個人的概念であって、社会的には「自由な状態」と「不自由な状態」を明確に分けるような普遍的基準がありません。定義を言えば、いかなる行為(殺人でさえも)に対しても制約を受けないということが「個人的自由」ですが、社会が複数の個人で成り立っている以上、この「個人的自由」がそのまま「社会的自由」と認められることはありません。
そこで「自由に対して情熱を燃やす国民性」と言う時、それが「個人的自由」であるか「社会的自由」であるかによって、ずいぶん評価が変わってきます。前者であれば、それは単に「我がまま勝手でエゴイズムの固まり」ということになってしまうのです。
もちろん、パピヨンさん(英文の長いHNを貼付けるのが面倒なので、こちらで呼ばせてもらいます)が言いたい事は、「米国民は『社会的自由』に対して情熱を燃やす国民性だ」と言うことなのでしょうが、さてそこで「社会的自由」を構成するものが何であるか、あなた自身、きちんと理解されているのかどうか、はなはだ疑問に感じるのです。
「個人的自由」を獲得するための戦いは、自分を抑圧していると思われる支配者や侵略者、占領者に対して行われます。この場合、支配、侵略、占領の正当性は無関係です。自分が不自由であると感じる人にとって、支配者、侵略者、占領者は常に「敵」であり、その抑圧は「不当」なのです。たとえ、その社会の基準で見たときに、それが「被害妄想」でしかなかったとしても、その個人にとって「自由獲得のための戦いは、常に『正義』の戦い」となります。しかし…、
たとえば、囚人は自由を束縛されていますよね。彼らが自由を求めて、脱獄を企てたとしましょう。これは社会全体から見た場合、明らかに「犯罪」ですが、囚人側から見れば「自由を得るための戦い」になります。つまり、個人的基準では「自由獲得の為の戦い」は常に「正義」だけれど、社会的基準では、必ずしもそうではない…ということなんですよね。
映画「パピヨン」の主人公は、「無実の罪」で牢獄につながれていたわけですが、もし彼が実際に「殺人犯」だったとしたら、あなたは彼の「自由への執念」を賞賛したでしょうか?
結局のところ、米国民も「パピヨン」の主人公もその観客も、真に求めていたのは「(無制限の個人的)自由」ではなく、社会的に正当な「扱い」「処遇」だったということですね。ここから「社会的自由」を構成する要素の中で、最も重要かつ不可欠なものが「社会的正当性」であると言うことがお分かりいただけると思います。
要するに「自由のため」とか「安全のため」「平和のため」とさえ言えば、どのような行為も正当化されるわけじゃないのです。求める「自由」が社会的に正当もしくは妥当なものであるか? 求める「安全」が社会的に過度な「安泰」になっていないか? 求める「平和」が社会的不公平の強要になっていないか?…響きの良い言葉に酔って、これらのチェックを怠れば、独善的な「自由」「安全」「平和」のために、「抑圧」「危険」「戦争」を招くという皮肉なことになってしまうわけです。
>というものを、他国の人は理解できないかもしれない。
ちょっとトピずれになりますが、今回は「自由」についてお話してみたいと思います。
「自由」は元来、個人的概念であって、社会的には「自由な状態」と「不自由な状態」を明確に分けるような普遍的基準がありません。定義を言えば、いかなる行為(殺人でさえも)に対しても制約を受けないということが「個人的自由」ですが、社会が複数の個人で成り立っている以上、この「個人的自由」がそのまま「社会的自由」と認められることはありません。
そこで「自由に対して情熱を燃やす国民性」と言う時、それが「個人的自由」であるか「社会的自由」であるかによって、ずいぶん評価が変わってきます。前者であれば、それは単に「我がまま勝手でエゴイズムの固まり」ということになってしまうのです。
もちろん、パピヨンさん(英文の長いHNを貼付けるのが面倒なので、こちらで呼ばせてもらいます)が言いたい事は、「米国民は『社会的自由』に対して情熱を燃やす国民性だ」と言うことなのでしょうが、さてそこで「社会的自由」を構成するものが何であるか、あなた自身、きちんと理解されているのかどうか、はなはだ疑問に感じるのです。
「個人的自由」を獲得するための戦いは、自分を抑圧していると思われる支配者や侵略者、占領者に対して行われます。この場合、支配、侵略、占領の正当性は無関係です。自分が不自由であると感じる人にとって、支配者、侵略者、占領者は常に「敵」であり、その抑圧は「不当」なのです。たとえ、その社会の基準で見たときに、それが「被害妄想」でしかなかったとしても、その個人にとって「自由獲得のための戦いは、常に『正義』の戦い」となります。しかし…、
たとえば、囚人は自由を束縛されていますよね。彼らが自由を求めて、脱獄を企てたとしましょう。これは社会全体から見た場合、明らかに「犯罪」ですが、囚人側から見れば「自由を得るための戦い」になります。つまり、個人的基準では「自由獲得の為の戦い」は常に「正義」だけれど、社会的基準では、必ずしもそうではない…ということなんですよね。
映画「パピヨン」の主人公は、「無実の罪」で牢獄につながれていたわけですが、もし彼が実際に「殺人犯」だったとしたら、あなたは彼の「自由への執念」を賞賛したでしょうか?
結局のところ、米国民も「パピヨン」の主人公もその観客も、真に求めていたのは「(無制限の個人的)自由」ではなく、社会的に正当な「扱い」「処遇」だったということですね。ここから「社会的自由」を構成する要素の中で、最も重要かつ不可欠なものが「社会的正当性」であると言うことがお分かりいただけると思います。
要するに「自由のため」とか「安全のため」「平和のため」とさえ言えば、どのような行為も正当化されるわけじゃないのです。求める「自由」が社会的に正当もしくは妥当なものであるか? 求める「安全」が社会的に過度な「安泰」になっていないか? 求める「平和」が社会的不公平の強要になっていないか?…響きの良い言葉に酔って、これらのチェックを怠れば、独善的な「自由」「安全」「平和」のために、「抑圧」「危険」「戦争」を招くという皮肉なことになってしまうわけです。
これは メッセージ 72904 (honey_badger_21 さん)への返信です.
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