アラファト議長死去
投稿者: pikaichi_kink_1000000 投稿日時: 2004/11/11 16:39 投稿番号: [57593 / 118550]
アラファト議長死去
中東和平の行方混沌
【パリ=山口昌子】パレスチナ自治政府のヤセル・アラファト議長=パレスチナ解放機構(PLO)議長=が十一日午前三時半(日本時間同十一時半)、治療のため入院していたパリ郊外クラマールのペルシー軍病院で死亡した。同病院の担当者が発表した。七十五歳だった。死因は不明。パレスチナの最高指導者の死が、後継者問題も含め、パレスチナ情勢や中東和平の行方に影響を及ぼすのは必至だ。
これに先立ち十日午後、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラでは、PLOや、同機構主流派ファタハなど各派の幹部による合同会議が開かれ、パレスチナ基本法(暫定憲法)の規定通り、パレスチナ立法評議会(PLC、国会に相当)のファトゥーハ議長が暫定的に自治政府議長に就任することで合意している。六十日以内に新議長選出のための選挙を実施する。
遺体はまずエジプトの首都カイロに運ばれ、葬儀が行われる。その後、一時的な埋葬地ラマラに送られる予定だ。イスラエル政府は十日、ラマラでの埋葬を承認したと発表した。
議長はラマラの議長府で十月二十七日夜、約十分間、意識不明に陥り、同二十九日、ヨルダン経由でパリの病院に移送。一時は回復に向かったものの、今月三日に再び容体が悪化。集中治療室に移された後、意識不明となり昏睡(こんすい)状態に陥っていた。二日に仏国防省が発表した精密検査の結果では、「白血球の増加や血小板の減少」が確認され、血液や消化機能の異常が指摘されていた。
一方、イスラエル政府はパレスチナ住民の抗議行動や混乱が起きることを警戒、暴動など発生の場合は自治区を封鎖するなどの措置を取ることも予想される。
アラファト議長の死が今後のパレスチナ情勢に大きな影響を与えるのは確実だ。半世紀にわたりパレスチナ解放闘争を率い、強大な権限を握っていただけに、議長の後継者問題は権力闘争に発展しかねない。
アラファト議長は一九二九年生まれ。カイロ大在学中に対イスラエル闘争に参加、六九年にPLO議長に就任。九三年、パレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)に調印、九四年にイスラエルのラビン首相(当時)らとノーベル平和賞を受賞。
九六年には初の自治政府議長選で当選したが、その後、オスロ合意が破綻(はたん)。二〇〇一年十二月からシャロン政権によりラマラの議長府内で事実上の軟禁下に置かれていた。スーハ夫人(41)との間に一女。
◇
■パレスチナ解放機構(PLO) 1964年、エルサレムでの第1回パレスチナ民族評議会で成立。憲法に相当するパレスチナ民族憲章を持つ。議長は69年からアラファト氏が務めていた。73年のアラブ首脳会議で「パレスチナ人を代表する唯一の組織」として承認、74年に国連のオブザーバー参加が認められた。98年には国連総会の一般討論への参加権を得た。(共同)
(産経新聞) - 11月11日15時40分更新
アラファトさんのした軌跡の詳細は知りませんが、親しみある方でした。
ご冥福をお祈り申し上げ、哀悼の意とさせていただきます。
【パリ=山口昌子】パレスチナ自治政府のヤセル・アラファト議長=パレスチナ解放機構(PLO)議長=が十一日午前三時半(日本時間同十一時半)、治療のため入院していたパリ郊外クラマールのペルシー軍病院で死亡した。同病院の担当者が発表した。七十五歳だった。死因は不明。パレスチナの最高指導者の死が、後継者問題も含め、パレスチナ情勢や中東和平の行方に影響を及ぼすのは必至だ。
これに先立ち十日午後、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ラマラでは、PLOや、同機構主流派ファタハなど各派の幹部による合同会議が開かれ、パレスチナ基本法(暫定憲法)の規定通り、パレスチナ立法評議会(PLC、国会に相当)のファトゥーハ議長が暫定的に自治政府議長に就任することで合意している。六十日以内に新議長選出のための選挙を実施する。
遺体はまずエジプトの首都カイロに運ばれ、葬儀が行われる。その後、一時的な埋葬地ラマラに送られる予定だ。イスラエル政府は十日、ラマラでの埋葬を承認したと発表した。
議長はラマラの議長府で十月二十七日夜、約十分間、意識不明に陥り、同二十九日、ヨルダン経由でパリの病院に移送。一時は回復に向かったものの、今月三日に再び容体が悪化。集中治療室に移された後、意識不明となり昏睡(こんすい)状態に陥っていた。二日に仏国防省が発表した精密検査の結果では、「白血球の増加や血小板の減少」が確認され、血液や消化機能の異常が指摘されていた。
一方、イスラエル政府はパレスチナ住民の抗議行動や混乱が起きることを警戒、暴動など発生の場合は自治区を封鎖するなどの措置を取ることも予想される。
アラファト議長の死が今後のパレスチナ情勢に大きな影響を与えるのは確実だ。半世紀にわたりパレスチナ解放闘争を率い、強大な権限を握っていただけに、議長の後継者問題は権力闘争に発展しかねない。
アラファト議長は一九二九年生まれ。カイロ大在学中に対イスラエル闘争に参加、六九年にPLO議長に就任。九三年、パレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)に調印、九四年にイスラエルのラビン首相(当時)らとノーベル平和賞を受賞。
九六年には初の自治政府議長選で当選したが、その後、オスロ合意が破綻(はたん)。二〇〇一年十二月からシャロン政権によりラマラの議長府内で事実上の軟禁下に置かれていた。スーハ夫人(41)との間に一女。
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■パレスチナ解放機構(PLO) 1964年、エルサレムでの第1回パレスチナ民族評議会で成立。憲法に相当するパレスチナ民族憲章を持つ。議長は69年からアラファト氏が務めていた。73年のアラブ首脳会議で「パレスチナ人を代表する唯一の組織」として承認、74年に国連のオブザーバー参加が認められた。98年には国連総会の一般討論への参加権を得た。(共同)
(産経新聞) - 11月11日15時40分更新
アラファトさんのした軌跡の詳細は知りませんが、親しみある方でした。
ご冥福をお祈り申し上げ、哀悼の意とさせていただきます。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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