民主主義と小さな援助:モリヤさん
投稿者: asean_peace11 投稿日時: 2004/10/13 08:57 投稿番号: [55595 / 118550]
おはようございます。
その地域地域にあった民主主義というのは僕は実は
宗教が基盤になっていない駄目だろうと、思っているんです。
ただ、欧米や日本の人達が考えている宗教観と宗教が
空気のように存在する地域の宗教観は全く違うという
前提がありますので、同じように理解されてもちょっと困るんですが(苦笑)
どの辺りが違うかという部分だけのお話をしますと
確かに空気のように存在はしていますが、その宗教も実は
こうした地域では国民の間に普遍化している訳では無く、
いわゆる知識特権階級の所有物なので、タリバン型や
アルカイダ型のイスラム原理主義の内実を実を肝心のムスリムが
知らない・・・のです。
まぁ、そうした部分を普遍化させるとなると上座部仏教でも
イスラム教でも教義自体が崩れますから僕が言っているのは
あくまでも”善悪の基準”という線引きを宗教を元に
進めた民主主義とでも言うモノなのですが政教分離をする
とかしないとか言う建前論での話でもなく既得権という
部分では分離することは全く不可能ですんで、それならば
如何に共存するか?みたいなことなんですけどね。
マレーシア型ってのはその点かなり上手く機能している
とは評価しているんですが・・・
本人もまだ、具体的なイメージが出来上がっていないので
この話はこの辺りで、はい
小さな貢献
規模は本質ではないんです。
ただ、僕がこうした活動をしている方々やそれを支援している
方々にお願いしたいことが一つだけあるんです。
それは
『その国とその国の人々に対する支援』であることを
忘れないでほしい訳です。
そんなこと当り前だろ、と思われるかもしれませんが、実は
意外とこの理解は難しいんです。
僕が自己完結型のこうした活動を余り好きになれない理由が
そこなんですが、どんな小さな支援であってもそれを
生かすのは支援している側ではなくて支援を受けている側なんです。
植林も確かに大事なんですが、支援している側に『その後』が
ちゃんと視野に入ってるのか?これが無いとそれこそ目的と手段の
摩り替えが起こってしまう。
つまり、支援を受けている人間が生活しているのは日本や
欧米ではありませんから、その後『も』彼らはその国で
生活をし続ける訳です。
とろこが、ややもすると、支援内容がその国の社会制度上
無理があったり、意味が無い場合が往々にしてあるので、
その支援結果をその住民が優位にその国の社会制度の中で
生かすことが出来ない場合がある。
例えば、学校が無いから学校を作る、これはこれで大事なことですが
その学校を出た後、その人間の受け皿がその地域になければ
文字が読める又はそこそこの知識を持った人間だけを生み出す
ことになるだけで、その人間はその地域の一般的なレベルからは
浮き上がってしまいます。
しかし、職能訓練でもなんでもない単なる普通学校では
地元でも役に立たたないですしと都会に出たとしても
ローカルの大学へ行ける程の学力も無いし、資金も無い。
中途半端な学卒者が生きて行ける場所が無くなってしまうのです。
(ましてや田舎はバリバリに保守的ですからね)
実際、アルカイダ等にリクルートされる人間はこうした
中途半端な行き場の無い中途半端な学卒者が多いのも事実です。
ですから、その国の既存制度と支援する側の国情が
支援内容を中心して常に連携され且様々な情報や
具合的な事柄がやりとりされる中で支援自体が実施されないと
全く効果を発揮出来ないので。
常に開かれた(僕は開放型と呼んでいますが)支援にならないと、
局部的な話だけで終わってしまう可能性が非常に高くなる。
それと支援内容の柔軟な変更や拡大縮小が地域の事情の変化等に
合わせて対応出来ないとならない・・・ところがこれが意外と
難しいんです。
(特にスポンサーの関係で資金援助の認可項目を変更出来ない
場合が案外多い、更に一般募金に頼る場合も、残念なことに
時流では無い地域での活動だと募金が集まりにくいという
事情も実際にあるようです)
まぁ、有体に言わせて頂くと、自己完結型の支援というのは
自己満足型の支援になりやすい、それも手段が目的化した
支援になりがちな要素をふんだんに持っている。
それと、テトさんでさえも勘違いしているようにボランティアってのは
志願することですからそれは徴兵されることではありませんよね
つまり『自らプロになることを選択した』ということなので、
アマチュアの延長線での活動では決して無いというはずなんです
その地域地域にあった民主主義というのは僕は実は
宗教が基盤になっていない駄目だろうと、思っているんです。
ただ、欧米や日本の人達が考えている宗教観と宗教が
空気のように存在する地域の宗教観は全く違うという
前提がありますので、同じように理解されてもちょっと困るんですが(苦笑)
どの辺りが違うかという部分だけのお話をしますと
確かに空気のように存在はしていますが、その宗教も実は
こうした地域では国民の間に普遍化している訳では無く、
いわゆる知識特権階級の所有物なので、タリバン型や
アルカイダ型のイスラム原理主義の内実を実を肝心のムスリムが
知らない・・・のです。
まぁ、そうした部分を普遍化させるとなると上座部仏教でも
イスラム教でも教義自体が崩れますから僕が言っているのは
あくまでも”善悪の基準”という線引きを宗教を元に
進めた民主主義とでも言うモノなのですが政教分離をする
とかしないとか言う建前論での話でもなく既得権という
部分では分離することは全く不可能ですんで、それならば
如何に共存するか?みたいなことなんですけどね。
マレーシア型ってのはその点かなり上手く機能している
とは評価しているんですが・・・
本人もまだ、具体的なイメージが出来上がっていないので
この話はこの辺りで、はい
小さな貢献
規模は本質ではないんです。
ただ、僕がこうした活動をしている方々やそれを支援している
方々にお願いしたいことが一つだけあるんです。
それは
『その国とその国の人々に対する支援』であることを
忘れないでほしい訳です。
そんなこと当り前だろ、と思われるかもしれませんが、実は
意外とこの理解は難しいんです。
僕が自己完結型のこうした活動を余り好きになれない理由が
そこなんですが、どんな小さな支援であってもそれを
生かすのは支援している側ではなくて支援を受けている側なんです。
植林も確かに大事なんですが、支援している側に『その後』が
ちゃんと視野に入ってるのか?これが無いとそれこそ目的と手段の
摩り替えが起こってしまう。
つまり、支援を受けている人間が生活しているのは日本や
欧米ではありませんから、その後『も』彼らはその国で
生活をし続ける訳です。
とろこが、ややもすると、支援内容がその国の社会制度上
無理があったり、意味が無い場合が往々にしてあるので、
その支援結果をその住民が優位にその国の社会制度の中で
生かすことが出来ない場合がある。
例えば、学校が無いから学校を作る、これはこれで大事なことですが
その学校を出た後、その人間の受け皿がその地域になければ
文字が読める又はそこそこの知識を持った人間だけを生み出す
ことになるだけで、その人間はその地域の一般的なレベルからは
浮き上がってしまいます。
しかし、職能訓練でもなんでもない単なる普通学校では
地元でも役に立たたないですしと都会に出たとしても
ローカルの大学へ行ける程の学力も無いし、資金も無い。
中途半端な学卒者が生きて行ける場所が無くなってしまうのです。
(ましてや田舎はバリバリに保守的ですからね)
実際、アルカイダ等にリクルートされる人間はこうした
中途半端な行き場の無い中途半端な学卒者が多いのも事実です。
ですから、その国の既存制度と支援する側の国情が
支援内容を中心して常に連携され且様々な情報や
具合的な事柄がやりとりされる中で支援自体が実施されないと
全く効果を発揮出来ないので。
常に開かれた(僕は開放型と呼んでいますが)支援にならないと、
局部的な話だけで終わってしまう可能性が非常に高くなる。
それと支援内容の柔軟な変更や拡大縮小が地域の事情の変化等に
合わせて対応出来ないとならない・・・ところがこれが意外と
難しいんです。
(特にスポンサーの関係で資金援助の認可項目を変更出来ない
場合が案外多い、更に一般募金に頼る場合も、残念なことに
時流では無い地域での活動だと募金が集まりにくいという
事情も実際にあるようです)
まぁ、有体に言わせて頂くと、自己完結型の支援というのは
自己満足型の支援になりやすい、それも手段が目的化した
支援になりがちな要素をふんだんに持っている。
それと、テトさんでさえも勘違いしているようにボランティアってのは
志願することですからそれは徴兵されることではありませんよね
つまり『自らプロになることを選択した』ということなので、
アマチュアの延長線での活動では決して無いというはずなんです
これは メッセージ 55568 (moriya99 さん)への返信です.
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