ナンチャッテさん始めまして
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2004/07/24 15:21 投稿番号: [47434 / 118550]
うう・・・オバカな私には、難しすぎてよく分らない部分が多いです(-_-;)
>そう考えると、釈迦がバラモン教の苦行の中で悟った物は
当時の社会制度と宗教的戒律によって築かれた「自己を写す概念」
その存在を悟り、それを見ている自我を悟ったのではないかと推察します。
まあ、これは人類経済学の
カール・ポランニー(パンサルですね)が提唱する
「内知」の存在に気付く事とほぼ同義だと考えます。
多分このことは、「唯識」とか「阿頼耶識」とか言うものを現していると思いますが、このことと、釈尊の境地がどういう関係にあるのか?については、オバカですから、まだ充分に考察していません。たしか唯識は、少し時代が下がったときの大乗仏教の発達過程ででき上がった考え方でしたよねえ?
唯識に代表されるような、だだ自他との認識を、相対的なものとして考えるというのはちょっと違和感を感じてしまいます。釈迦自身は、もう少し絶対的なもの、自己完結的なもの、没自我的なものを目指すだけは目指した(結論はどうであれ)のではないか?と感じていました。
>しかし、悟りがあるレベル以上になった者にとっては
悟りがもたらす「概念の認識」により
概念が生み出した人類の様々な壁(文化や宗教)を取り払う事が可能だと考えます。
この2000年間ダメでしたし、特にアメリカに代表される3s政策や、一億総白痴化政策や、商業資本主義の都合に合わせると、こういうことは益々難しくなっている現状を私は感じていますが・・?
>これが、エクメニカル・ガバメントを考える時の一つの鍵ではないかと考えています。
私は、人類が現世利益を考える以上、こういうある種世界の均一化というものは、無理じゃなかろうか?と考えているんですが、どうなんでしょう。あまり考えたことがありません。
これは メッセージ 47419 (nanntyattesamurai さん)への返信です.
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