国旗・国歌→世界連邦 その1
投稿者: t00k2004 投稿日時: 2004/07/06 08:16 投稿番号: [46169 / 118550]
>崩壊寸前の日本の民主主義の根幹を、危機感をもってその政治勢力の欺瞞に対して批判しなければならない時期なのに、その現状をとてもじゃないけど、一般論としての民主主義国家の立場で肯定した立場からは語れません。
>もはや委員会は中央集権の末端の機関になりさがっております。
国立教育政策研究所が97年、約1600の市町村教育長にアンケートしたところ「文部省の指導通達には事実上、強制力がある」とのことです。
>私は別に共産主義者が悪いとは言わんが・・・
『政治運動を学校でするな!
子どもを巻き込むな!』
と言いたい・・・
>かつてオリンピックの表彰台で星条旗を見ず下を向いて黒い皮手袋のこぶしを空中に突き出した黒人らがいましたが、なんの注意も罰則もありませんでした
>私の記憶では、かれらはメダルを剥奪されてます。しかしこれはアメリカからのクレームではなくて、オリンピック協会からのクレームでした。アメリカはオリンピック協会の反米的な差別だと抗議したという話をきいたことがあります。
それにしても日本の人たちが、自国の国旗や国歌を誇り高らかに見られないというのは、もと日本人としてかなり悲しいなあ。
中央政府の成り立ち
http://www.law.keio.ac.jp/~hagisemi/yuki/work.html
引用
アメリカの指導の下で民主化された敗戦国日本は、世界中のどこの国よりも経済的に大きな成長を遂げていた。
冷戦が終結するまでのこの200年間、民主主義は民衆の理想を実現するためのイデオロギーとして
あるいは大国が、排他的に自国を正当化するための道具としてさまざまに利用されてきた。今や民主主義は単なるシンボルであり、かつて民衆が求めた民主主義の本質は民主主義国家の目的ではない。
冷戦期の民主主義は資本主義の新しい理論に従って体制エリートにより設計されたものにすぎない。(はじめ民衆は資本主義社会を目指す自由主義者達に強固に反対したにもかかわらず、反自由主義思想から生まれた社会主義、共産主義思想は異端として排除されてしまった!)、民衆のイニシアチブほとんど存在せず、政治機構においても議会制民主主義の機能不全は明らかで、人々は多くのレヴェルでの討論の意味を失ってしまった。民衆は民主主義体制の安定の中で政治的関心を失い、関心の矛先はもっぱら私的生活の中で個人利益の追求に向けられている。それは民主主義を冠せられた管理国家に他ならず、民衆が自由の体制への埋没してしまったことを意味している。
反資本主義運動とあいまって批判された自由主義であるが、現在においては民主主義と切り離しては考えられないも のとなっている。どれだけの自由が自分の望むように実現され、またそれが他人に認められるかということは、現代を生きる人々にとって最大の関心事である。上で述べた民主主義において個人は民衆でなく、個人の価値を求めて闘う一人の人間であり、個人が自らの手で自分の未来を創造することができる。
民主主義は時代の潮流に応じて変容しつづける。歴史が続く限り常に過去に挑戦しつづけるものである。
民主主義に完全はなく、人間の歴史の上では終焉も持たない。
したがって、人間が未来に何かを求める限り、民主主義は勝利しない。
続く
>もはや委員会は中央集権の末端の機関になりさがっております。
国立教育政策研究所が97年、約1600の市町村教育長にアンケートしたところ「文部省の指導通達には事実上、強制力がある」とのことです。
>私は別に共産主義者が悪いとは言わんが・・・
『政治運動を学校でするな!
子どもを巻き込むな!』
と言いたい・・・
>かつてオリンピックの表彰台で星条旗を見ず下を向いて黒い皮手袋のこぶしを空中に突き出した黒人らがいましたが、なんの注意も罰則もありませんでした
>私の記憶では、かれらはメダルを剥奪されてます。しかしこれはアメリカからのクレームではなくて、オリンピック協会からのクレームでした。アメリカはオリンピック協会の反米的な差別だと抗議したという話をきいたことがあります。
それにしても日本の人たちが、自国の国旗や国歌を誇り高らかに見られないというのは、もと日本人としてかなり悲しいなあ。
中央政府の成り立ち
http://www.law.keio.ac.jp/~hagisemi/yuki/work.html
引用
アメリカの指導の下で民主化された敗戦国日本は、世界中のどこの国よりも経済的に大きな成長を遂げていた。
冷戦が終結するまでのこの200年間、民主主義は民衆の理想を実現するためのイデオロギーとして
あるいは大国が、排他的に自国を正当化するための道具としてさまざまに利用されてきた。今や民主主義は単なるシンボルであり、かつて民衆が求めた民主主義の本質は民主主義国家の目的ではない。
冷戦期の民主主義は資本主義の新しい理論に従って体制エリートにより設計されたものにすぎない。(はじめ民衆は資本主義社会を目指す自由主義者達に強固に反対したにもかかわらず、反自由主義思想から生まれた社会主義、共産主義思想は異端として排除されてしまった!)、民衆のイニシアチブほとんど存在せず、政治機構においても議会制民主主義の機能不全は明らかで、人々は多くのレヴェルでの討論の意味を失ってしまった。民衆は民主主義体制の安定の中で政治的関心を失い、関心の矛先はもっぱら私的生活の中で個人利益の追求に向けられている。それは民主主義を冠せられた管理国家に他ならず、民衆が自由の体制への埋没してしまったことを意味している。
反資本主義運動とあいまって批判された自由主義であるが、現在においては民主主義と切り離しては考えられないも のとなっている。どれだけの自由が自分の望むように実現され、またそれが他人に認められるかということは、現代を生きる人々にとって最大の関心事である。上で述べた民主主義において個人は民衆でなく、個人の価値を求めて闘う一人の人間であり、個人が自らの手で自分の未来を創造することができる。
民主主義は時代の潮流に応じて変容しつづける。歴史が続く限り常に過去に挑戦しつづけるものである。
民主主義に完全はなく、人間の歴史の上では終焉も持たない。
したがって、人間が未来に何かを求める限り、民主主義は勝利しない。
続く
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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