kumeruoukokuさんへ 無駄に長文笑
投稿者: grokworkdoll 投稿日時: 2004/06/25 18:37 投稿番号: [45162 / 118550]
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ただし、イスラム教はちょっと違うみたいですね
そうですね。イスラム法てのがありますもんね。社会一般の道徳観念自体が、宗教を基盤としている。逸脱というのはいわゆる政教分離された社会における、宗教の位置付けということになりますね。
ただ、あらゆる宗教思想、神秘思想は現世を超えた超越的な世界(超越神、霊界や未来の救済など)を世俗と分離し設定するところからはじまるとはいえると思います。そういう意味では、現状を超えいくという基本的な指向性は内在すると思います。俗世に対する批判的視点、祈りや修行による現実の超越・救済などが、宗教思想、宗教感情には不可欠のエレメントではないでしょうか。
イスラム法についてはあまり詳しくないのですが、利子の禁止など、俗世というか俗性に対しての、聖性による厳しい自己抑制・管理という側面が強いと思います。
カルトに関しては、たちの悪いカルトというのは確かに存在しますので、「いい宗教/悪い宗教の区別は無意味」という話をする時にはやっかいな論の段取りが必要になります。そういうのが面倒くさいから、そういう込み入った話を半可通相手にしたくないというのがありますね。
僕個人としては、やはり「時間の経過」というのがひとつの目安になると考えます。長い時間をかけて継続している教義は、それなりにマイルドに仕上がっている。だから新興宗教というのは、新興だからと色眼鏡でみることはないけど、特に積極的に評価するということもありません。保守的ともいえる態度ですが、宗教感情における「逸脱」と「批判精神」というのは、この宇宙全体にたいする根源的な問いの視線ですので、俗世における具体的な反体制的な態度や指向性というのを即、宗教の重要な本質とするわけではありません。悪質なカルトというのは、ここがごっちゃになってるんすね。
だから、現世利益を全面に打ち出す教義でも、ひたすら超越的世界を志向する教義でも、それで宗教思想をランクづけしたりはしませんね。現世利益の追求というのも、宗教がもつ本質的なベクトルだと思います。一神教やキリスト教の教会システムというのはこの現世利益の追求というベクトルを「超越神」を設定することでストイックに排除・管理するというアイデアで、どちらかといえば人類史においてはローカルで最近のものといえるでしょう。そこで切り捨てられた現世幸福の追求というベクトルは、呪術とかおまじない、密教というかたちで回収されます。そこにはそこで魅力や意義が見出せるわけで。
ところで、
大宗教と呼ばれるものはおおむね、顕教と密教というふたつのベクトルをあわせ持ちます。前者は社会の道徳基盤に関わり、後者は神秘思想や個人的超越体験などの実践体系ですね。イスラムにはスーフィズムというのが、この密教にあたる部分だと思います。そこでは、コーランすらも相対化されるのですが、それはそれ、としてイスラム社会でも受け入れられるわけです。
キリスト教にもペンタコステル派や広くとれば神智学など密教的なものは存在しますし、仏教はそのまんま真言密教が定着してますね。密教というのはある程度大きくなった宗教が必然的に内包するある精神のベクトルであり、現世幸福の追求や超越体験など、一見派手な要素が強いのですが、それをもってカルト性を計る物差しとはなりえません。日本は、西洋一神教の精神文化を輸入した際、この密教的なるものを大きく見落としてしまった。だから、原理主義の由来が理解しにくいし、合理主義や自然科学という「精神文化」を、人文学や宗教感情の対極として捉えてしまう罠に陥りやすいと思います。いわゆる半可通の科学万能主義者は、宗教や精神文化を別ものとして見下したような態度をとる。しかし、宇宙は完全に観測し合理的に解明できるという近代合理思想の頂点には、完全なる神という概念が存在しているということを、もっと理解するべきでしょうね。一神教世界の戦争を理解するためには。
乱暴かつ大雑把に書き飛ばしてきました。
天地創造に関しては、資料がみつかったらまた書きます。おおざっぱには、聖書自体が解釈の重層性を余儀無くされる矛盾に満ちており、聖書学というかたちで様々な整合性を調節する試みが行われているわけですが、そこで神は天地を創造したと述べられていても別のところで天使達が創造したとかあり、こりゃいったいどう解釈すればええねん、というところからでてくるものです。
ただし、イスラム教はちょっと違うみたいですね
そうですね。イスラム法てのがありますもんね。社会一般の道徳観念自体が、宗教を基盤としている。逸脱というのはいわゆる政教分離された社会における、宗教の位置付けということになりますね。
ただ、あらゆる宗教思想、神秘思想は現世を超えた超越的な世界(超越神、霊界や未来の救済など)を世俗と分離し設定するところからはじまるとはいえると思います。そういう意味では、現状を超えいくという基本的な指向性は内在すると思います。俗世に対する批判的視点、祈りや修行による現実の超越・救済などが、宗教思想、宗教感情には不可欠のエレメントではないでしょうか。
イスラム法についてはあまり詳しくないのですが、利子の禁止など、俗世というか俗性に対しての、聖性による厳しい自己抑制・管理という側面が強いと思います。
カルトに関しては、たちの悪いカルトというのは確かに存在しますので、「いい宗教/悪い宗教の区別は無意味」という話をする時にはやっかいな論の段取りが必要になります。そういうのが面倒くさいから、そういう込み入った話を半可通相手にしたくないというのがありますね。
僕個人としては、やはり「時間の経過」というのがひとつの目安になると考えます。長い時間をかけて継続している教義は、それなりにマイルドに仕上がっている。だから新興宗教というのは、新興だからと色眼鏡でみることはないけど、特に積極的に評価するということもありません。保守的ともいえる態度ですが、宗教感情における「逸脱」と「批判精神」というのは、この宇宙全体にたいする根源的な問いの視線ですので、俗世における具体的な反体制的な態度や指向性というのを即、宗教の重要な本質とするわけではありません。悪質なカルトというのは、ここがごっちゃになってるんすね。
だから、現世利益を全面に打ち出す教義でも、ひたすら超越的世界を志向する教義でも、それで宗教思想をランクづけしたりはしませんね。現世利益の追求というのも、宗教がもつ本質的なベクトルだと思います。一神教やキリスト教の教会システムというのはこの現世利益の追求というベクトルを「超越神」を設定することでストイックに排除・管理するというアイデアで、どちらかといえば人類史においてはローカルで最近のものといえるでしょう。そこで切り捨てられた現世幸福の追求というベクトルは、呪術とかおまじない、密教というかたちで回収されます。そこにはそこで魅力や意義が見出せるわけで。
ところで、
大宗教と呼ばれるものはおおむね、顕教と密教というふたつのベクトルをあわせ持ちます。前者は社会の道徳基盤に関わり、後者は神秘思想や個人的超越体験などの実践体系ですね。イスラムにはスーフィズムというのが、この密教にあたる部分だと思います。そこでは、コーランすらも相対化されるのですが、それはそれ、としてイスラム社会でも受け入れられるわけです。
キリスト教にもペンタコステル派や広くとれば神智学など密教的なものは存在しますし、仏教はそのまんま真言密教が定着してますね。密教というのはある程度大きくなった宗教が必然的に内包するある精神のベクトルであり、現世幸福の追求や超越体験など、一見派手な要素が強いのですが、それをもってカルト性を計る物差しとはなりえません。日本は、西洋一神教の精神文化を輸入した際、この密教的なるものを大きく見落としてしまった。だから、原理主義の由来が理解しにくいし、合理主義や自然科学という「精神文化」を、人文学や宗教感情の対極として捉えてしまう罠に陥りやすいと思います。いわゆる半可通の科学万能主義者は、宗教や精神文化を別ものとして見下したような態度をとる。しかし、宇宙は完全に観測し合理的に解明できるという近代合理思想の頂点には、完全なる神という概念が存在しているということを、もっと理解するべきでしょうね。一神教世界の戦争を理解するためには。
乱暴かつ大雑把に書き飛ばしてきました。
天地創造に関しては、資料がみつかったらまた書きます。おおざっぱには、聖書自体が解釈の重層性を余儀無くされる矛盾に満ちており、聖書学というかたちで様々な整合性を調節する試みが行われているわけですが、そこで神は天地を創造したと述べられていても別のところで天使達が創造したとかあり、こりゃいったいどう解釈すればええねん、というところからでてくるものです。
これは メッセージ 45137 (kumeruoukoku さん)への返信です.
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