プロミス(4)
投稿者: gza00023 投稿日時: 2004/06/08 05:09 投稿番号: [42403 / 118550]
対話だけでは対立は解消できないことを、「プロミス」も教えてくれます。2 年後に子どもたちを再びカメラが追った時には、出会いの可能性は消えていました。
この映画はシャロンが首相になって、状況が最悪の事態へと突入する前に撮影されました。対話の試みのほとんどすべてが、その後に崩壊しました。
「対話と理解」を信じてそれを実践した子どもたちがぶつかる壁と失望は大きなものです。一生それは残るでしょう。それに対して、大人たちは責任をとらなければなりません。そして次の事を知らなければなりません。
それは対話を求める運動は、多くの場合、強者の側からなされるということです。弱者に対して現状を認めさせる強者の動き、既成事実化の動きと連動している場合が多いのです。それ以前には何があるか。弾圧や占領や差別があるのです。殺戮もあったりします。それは対話が始まらなくては解決できない問題なのでしょうか。それ以前の問題なのではないでしょうか。対話だけでは解決できない問題があるのですが、それの多くは対話以前に解決しなければならない問題なのです。占領の解決は、パレスチナ人が解決しようとしたら、抵抗運動になります。それは対話に敵対する動きです。占領は占領している側が終わらせなければならない問題なのです。
1967 年の戦争は、対話不足のために起こったのではありません。和平は対話を必要とするが、対話だけではどうにもなりません。どうしても占領が問題の発端であり、占領地からイスラエルが撤退することによってしか、和平が可能にならないということは事実なのです。
占領に反対するパレスチナ人の抵抗は、投石による抵抗運動 (インティファーダ) を生み出しました。それは銃による抵抗にエスカレートしました。しかし占領は終わりませんでした。絶望したパレスチナ人は自爆攻撃を行うようになります。それは多くの場合、市民を対象としたテロになります。テロがユダヤ人に植え付けた不信と恐怖は大変なものでした。しかしイスラエルは、自分たちが「国家テロ」という形でパレスチナの人々にどれほどの恐怖と殺戮を行ったのか、見る視点をなくしてしまいました。12 歳のユダヤ人少女が自爆テロで殺されるのを嘆く人が、同じ 12 歳のパレスチナ人少女がイスラエルの爆撃によって殺されることに対して目をつぶるということが、まかりとおっています。そして占領が根本的な問題であることを考えることもできなくなっています。今の事態がイスラエルの占領によってもたらされたことを認識する心を失っています。
それではどうすればいいのでしょうか。もっと爆弾で思い知らせることで、ユダヤ人が認識を始めるでしょうか。認識は始まりません。恐怖による撤退は、あるかも知れませんが。
では現状をそのままにして今、両者の対話を呼びかけることが、問題の解決になるでしょうか。これは占領者と被占領者の対話なのです。「平和の種」のオルガナイザーや、「プロミス」の監督にもそうした認識はあると思いますが、映画では語られません。子どもたちが始めた「対話による理解」は挫折しました。「プロミス」は見る者に、その原因は何かと問うています。
映画を見た後、もっと対話が必要だというような答えは答えにはなりません。そしてこの「対話の挫折」の後に見える世界は、占領者、富める者が、誰の犠牲で成り立っているのか、まったく「自分の姿を鏡に映してみないで」(チョムスキー)、暴力を欲しいままにしている世界です。
かつて私たちが行った「パレスチナ人とユダヤ人の共存のためのシンポジウム」の共同宣言は、「占領者と被占領者の間に共存はあり得ない。まず占領状態を終わらせることが、共存の出発点」と述べています。
これはユダヤ人とパレスチナ人の間だけで言えることではありません。不気味な 9 月の今だからこそ、日本の、そしてアメリカの姿に、この問題を重ねて考えることが必要だと思えるのです。
この映画はシャロンが首相になって、状況が最悪の事態へと突入する前に撮影されました。対話の試みのほとんどすべてが、その後に崩壊しました。
「対話と理解」を信じてそれを実践した子どもたちがぶつかる壁と失望は大きなものです。一生それは残るでしょう。それに対して、大人たちは責任をとらなければなりません。そして次の事を知らなければなりません。
それは対話を求める運動は、多くの場合、強者の側からなされるということです。弱者に対して現状を認めさせる強者の動き、既成事実化の動きと連動している場合が多いのです。それ以前には何があるか。弾圧や占領や差別があるのです。殺戮もあったりします。それは対話が始まらなくては解決できない問題なのでしょうか。それ以前の問題なのではないでしょうか。対話だけでは解決できない問題があるのですが、それの多くは対話以前に解決しなければならない問題なのです。占領の解決は、パレスチナ人が解決しようとしたら、抵抗運動になります。それは対話に敵対する動きです。占領は占領している側が終わらせなければならない問題なのです。
1967 年の戦争は、対話不足のために起こったのではありません。和平は対話を必要とするが、対話だけではどうにもなりません。どうしても占領が問題の発端であり、占領地からイスラエルが撤退することによってしか、和平が可能にならないということは事実なのです。
占領に反対するパレスチナ人の抵抗は、投石による抵抗運動 (インティファーダ) を生み出しました。それは銃による抵抗にエスカレートしました。しかし占領は終わりませんでした。絶望したパレスチナ人は自爆攻撃を行うようになります。それは多くの場合、市民を対象としたテロになります。テロがユダヤ人に植え付けた不信と恐怖は大変なものでした。しかしイスラエルは、自分たちが「国家テロ」という形でパレスチナの人々にどれほどの恐怖と殺戮を行ったのか、見る視点をなくしてしまいました。12 歳のユダヤ人少女が自爆テロで殺されるのを嘆く人が、同じ 12 歳のパレスチナ人少女がイスラエルの爆撃によって殺されることに対して目をつぶるということが、まかりとおっています。そして占領が根本的な問題であることを考えることもできなくなっています。今の事態がイスラエルの占領によってもたらされたことを認識する心を失っています。
それではどうすればいいのでしょうか。もっと爆弾で思い知らせることで、ユダヤ人が認識を始めるでしょうか。認識は始まりません。恐怖による撤退は、あるかも知れませんが。
では現状をそのままにして今、両者の対話を呼びかけることが、問題の解決になるでしょうか。これは占領者と被占領者の対話なのです。「平和の種」のオルガナイザーや、「プロミス」の監督にもそうした認識はあると思いますが、映画では語られません。子どもたちが始めた「対話による理解」は挫折しました。「プロミス」は見る者に、その原因は何かと問うています。
映画を見た後、もっと対話が必要だというような答えは答えにはなりません。そしてこの「対話の挫折」の後に見える世界は、占領者、富める者が、誰の犠牲で成り立っているのか、まったく「自分の姿を鏡に映してみないで」(チョムスキー)、暴力を欲しいままにしている世界です。
かつて私たちが行った「パレスチナ人とユダヤ人の共存のためのシンポジウム」の共同宣言は、「占領者と被占領者の間に共存はあり得ない。まず占領状態を終わらせることが、共存の出発点」と述べています。
これはユダヤ人とパレスチナ人の間だけで言えることではありません。不気味な 9 月の今だからこそ、日本の、そしてアメリカの姿に、この問題を重ねて考えることが必要だと思えるのです。
これは メッセージ 42402 (gza00023 さん)への返信です.
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