文化の相違・・共生の可能性
投稿者: asean_peace11 投稿日時: 2004/05/25 18:47 投稿番号: [41018 / 118550]
ある民族を取上げてその民族性等を自分の知り得る範囲内で論じることは
いわゆる抽象化(一部分を切出す)される可能性が高いことから
必ずしも妥当なものではないと思います。
その証拠に「こういう気質なんだろうな」と事前学習で得た知識で見ていた
『個人』が「全く違う反応をする」のを見て驚くということは往々にして起こります。
(実際、普段は約束にルーズで時間を守らないことが当り前だった人間が
ある約束に遅れるからと腕時計を見ながら猛烈ダッシュしたのを見て
・・なる程、彼の中の優先順位付けと僕らが考えている優先順位付けの方法も認識も違うんだ、
ということが始めて理解出来る)
「尊敬出来る人間」は正直な所「人種/文化/国籍」とは全く関係が無いとも断言出来ます。
これはその人間の所属する階層や都会田舎にも関係がありません。
僕らの活動でも中心的な役割を果たしている高級行政官は
「真摯に自分の国と国民の将来を真剣に考えて全く裏表が無く、
様々な面で仕事を正確にこなす能力」にはただただ感嘆します。
故に彼はSirの現地語よりも上位の敬称で現地の人間からも呼ばれています。
振り返って僕が居る村の人達にも僕は非常に尊敬を覚えるんですね。
それは彼らが僕らに示してくれる「非常に純粋で無償の心遣い」と言っても良い
と思っています。
実際、先週末の作業で僕が足に怪我をして(今日で多分、添え木と包帯から
デカイバンドエイドに変わると思いますが)動けない時に
彼らが示してくれる「いたわり」は並大抵のものではありません。
(外国人の他人にそこ迄・・と昨夜も女房と話して:此処へ来て良かったなあ、
と話をしましたが、苦笑)
そういった中で僕らが出来るお手伝いとは
その国の文化や地域特性、慣習習慣をどうするこうすることではなく
その国を取巻く『降りるに降りられないゲーム』をこの村でさえも無視出来ない
現実にどう対応するかというお手伝いしか出来ない訳です。
つまり、僕らが提示出来るものは
その降りることが出来ないゲームの仕組みや長所短所と対応方法の長所短所を
提示することであって、
その方法から何を選択するか?は僕らではなく彼らの判断に委ねしかない。
(イラクも同じだと思いますね)
この提示される対応方法の中には
実施されているゲームがその国生まれではない為に、彼らの観念や概念のままでは
例えそれが英語で語られたとしても相手には通じない、
つまり相手の概念や観念にこちら側の意志を置換えて英語にしない限り
本当は何を言いたいのかが通じないし理解もされない。
この逆の話は一杯聞きますね、
欧米の(日本の)概念や観念で相手を理解しようとしても出来ないし
押付けようとしても相手には理解されない、というものです。
仲介役でしかない僕らに求められるものは「如何にフラットな状態を保てるか」
これしか無い。
但しこのフラットさとは透明になることでは決してありません。
彼らの多くは「透明人間を嫌います(信念や時として行き過ぎる頑固さのある
人間が良いというのが彼らのプラスの人物評価の基本にあるからでもあります、
アラブ人にも”誇り高い人物評価”という基本が存在します)」
こうした事柄や降りるに降りられないゲームへの対応、この国の事情等様々な部分から
日本を振りかって見ると、僕はその相変わらずな「顔の見えなさ感」に危機感を
覚えることも事実です。
例えば、ASEAN諸国連合が現在その交渉テーブルで切っているカードは
日本に積極的に参加して貰いたいが為の非常にハイリスクな方法だと考えています。
(ダイムラーの三菱支援打切りの一つの理由は、
三菱側がこのゲームを読みきれなかったことも原因ではないか?と僕は考えています)
このゲーム方法は多分、外務省さんは理解していると思いますが
なぜか国内では議論にもならない。
なぜなら、相当強烈でしたたかな(と言って良いと思いますが)
外交指針を日本自身が持たないとこのゲームのディーラーが勤まらないからに
他ならないからどとも思っています。
僕のイスラム教受講ノートから女性と社会に関する序の一部をご紹介します。
社会の単位は個人であると良く言われる。
これは全体主義の弊害から個人の自由と尊厳を護ろうとする発想であり、
否定してはならない大切な理念を含んでいる。だがそのかたわら、
この思想は個人主義への道をも開いている。個としてのアイデンティテ ィを
主張するためには、どうしても他人との相違を意識しなければならない。
それが エスカレートすると、人は『他人との共通点』は求めず、
心
いわゆる抽象化(一部分を切出す)される可能性が高いことから
必ずしも妥当なものではないと思います。
その証拠に「こういう気質なんだろうな」と事前学習で得た知識で見ていた
『個人』が「全く違う反応をする」のを見て驚くということは往々にして起こります。
(実際、普段は約束にルーズで時間を守らないことが当り前だった人間が
ある約束に遅れるからと腕時計を見ながら猛烈ダッシュしたのを見て
・・なる程、彼の中の優先順位付けと僕らが考えている優先順位付けの方法も認識も違うんだ、
ということが始めて理解出来る)
「尊敬出来る人間」は正直な所「人種/文化/国籍」とは全く関係が無いとも断言出来ます。
これはその人間の所属する階層や都会田舎にも関係がありません。
僕らの活動でも中心的な役割を果たしている高級行政官は
「真摯に自分の国と国民の将来を真剣に考えて全く裏表が無く、
様々な面で仕事を正確にこなす能力」にはただただ感嘆します。
故に彼はSirの現地語よりも上位の敬称で現地の人間からも呼ばれています。
振り返って僕が居る村の人達にも僕は非常に尊敬を覚えるんですね。
それは彼らが僕らに示してくれる「非常に純粋で無償の心遣い」と言っても良い
と思っています。
実際、先週末の作業で僕が足に怪我をして(今日で多分、添え木と包帯から
デカイバンドエイドに変わると思いますが)動けない時に
彼らが示してくれる「いたわり」は並大抵のものではありません。
(外国人の他人にそこ迄・・と昨夜も女房と話して:此処へ来て良かったなあ、
と話をしましたが、苦笑)
そういった中で僕らが出来るお手伝いとは
その国の文化や地域特性、慣習習慣をどうするこうすることではなく
その国を取巻く『降りるに降りられないゲーム』をこの村でさえも無視出来ない
現実にどう対応するかというお手伝いしか出来ない訳です。
つまり、僕らが提示出来るものは
その降りることが出来ないゲームの仕組みや長所短所と対応方法の長所短所を
提示することであって、
その方法から何を選択するか?は僕らではなく彼らの判断に委ねしかない。
(イラクも同じだと思いますね)
この提示される対応方法の中には
実施されているゲームがその国生まれではない為に、彼らの観念や概念のままでは
例えそれが英語で語られたとしても相手には通じない、
つまり相手の概念や観念にこちら側の意志を置換えて英語にしない限り
本当は何を言いたいのかが通じないし理解もされない。
この逆の話は一杯聞きますね、
欧米の(日本の)概念や観念で相手を理解しようとしても出来ないし
押付けようとしても相手には理解されない、というものです。
仲介役でしかない僕らに求められるものは「如何にフラットな状態を保てるか」
これしか無い。
但しこのフラットさとは透明になることでは決してありません。
彼らの多くは「透明人間を嫌います(信念や時として行き過ぎる頑固さのある
人間が良いというのが彼らのプラスの人物評価の基本にあるからでもあります、
アラブ人にも”誇り高い人物評価”という基本が存在します)」
こうした事柄や降りるに降りられないゲームへの対応、この国の事情等様々な部分から
日本を振りかって見ると、僕はその相変わらずな「顔の見えなさ感」に危機感を
覚えることも事実です。
例えば、ASEAN諸国連合が現在その交渉テーブルで切っているカードは
日本に積極的に参加して貰いたいが為の非常にハイリスクな方法だと考えています。
(ダイムラーの三菱支援打切りの一つの理由は、
三菱側がこのゲームを読みきれなかったことも原因ではないか?と僕は考えています)
このゲーム方法は多分、外務省さんは理解していると思いますが
なぜか国内では議論にもならない。
なぜなら、相当強烈でしたたかな(と言って良いと思いますが)
外交指針を日本自身が持たないとこのゲームのディーラーが勤まらないからに
他ならないからどとも思っています。
僕のイスラム教受講ノートから女性と社会に関する序の一部をご紹介します。
社会の単位は個人であると良く言われる。
これは全体主義の弊害から個人の自由と尊厳を護ろうとする発想であり、
否定してはならない大切な理念を含んでいる。だがそのかたわら、
この思想は個人主義への道をも開いている。個としてのアイデンティテ ィを
主張するためには、どうしても他人との相違を意識しなければならない。
それが エスカレートすると、人は『他人との共通点』は求めず、
心
これは メッセージ 41013 (moriya99 さん)への返信です.
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