「朝生」報告
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2004/03/28 03:29 投稿番号: [34908 / 118550]
オウムと、連合赤軍の何人かには共通点があるのではなかろうか?と言うことから、考えてみると、日常生活でのリアリティに違和感というか、嫌悪感を感じていて、それを変革したいと思っている人達・・という意味では、同じだということが出きるのではないだろうか?
そして、それを、内面から変えていこうとする人が多かったのが、オウムで、物理的に形として変えようとしていた人が多かったのが連合赤軍だということではなかったか。
そして、どちらも同じように、一つの得体のしれないモノ(麻原とか、共産主義)に対して、自分を「ゆだねる」ことによって、思考停止し、自分(世界の)の解放が行なわれて、それによって救われると「信じ」たんだ。
※「ゆだねる」ということは、理念なり、死後の世界なり、将来的な世界設計なりの完成図を提示して、保証してくれている宗教やイデオロギーに任せちゃうということ。
元連合赤軍派戦士の植垣さんという人が、「連合赤軍には、理念なんか関係なかった。」とかいっていたのが面白かった。つまり、大学で、学生運動を始めたら、いきなり機動隊が入ってきて、自分達の要求をのませるためには、力で機動隊をまず排除しなければならないという現実がアリ、その現実的、物理的な力に対抗するために「武器」が必要だった・・・と。だからとにかく、優秀な戦士が必要なのであって、そこに理念を必要としなかった。だからその活動を継続させるために必要な理念を、既成のマルクスとか毛沢東から持ってこざるを得なかった。
宗教の中に、「死後の世界」と言うものを担保してくれるものがあることで、同じ共有する価値観を持つもの同志として、その「自分の死」自体に対して寛容になることが、「他人の死」に対しても鈍感になってしまう。・・・と言う実感は、オウムを研究していた人も、連合赤軍の植垣さんも同様に感じているようだった。・・・つまりこういう意味では、イデオロギーも宗教の範疇に入れてもおかしくないかも。
これは、今のイラク侵略とか、パレスチナ問題とか、ここでカルト国家アメリカを支持表明している人達のことを考えると、ものすごく分る気がしました。
そして、宮崎音弥さんの言っていたことは、多分、「死」なんて言うものを一生懸命考える人は、それなりに非常に「真面目」なんだけど、それは、私達、現実を生きているそれぞれの人とは、全く価値観を異にするわけだけど、そういう、「真面目」にやる人達によって、私達一般の人達が巻き込まれていくこと、には疑問を感じる。
つまり、真面目にやるという強さというか直線性とか、純粋性は、必ずしも良い方向に行くとも限らず、(しかし、「やる!」と主張するほうが、「やらない」と主張するより世の中に通りやすいという現実がある)これはもしかしたら、否定されるべきで、現実世界の多様性の方が、社会としては、互いにそれぞれ違う方向にベクトルが向いているという意味で、干渉しあうという意味で、「凪」状態になり、「安定」するのではないだろうか?・・・という話をしていたのが印象に残りました。
※現代日本の現状は、そういう学生運動や、オウムからの教訓から学んだ結果として、雑多に、多様に、生きる方向を良しとしていると考えられるわけで、ここ近年の右傾化に対しては、これが一つの大きな「一定方向のベクトル」と言う意味において、同じ過ちを繰り返す原因とか発端になりはしないだろうか?・・・と私は危惧します。
そして、それを、内面から変えていこうとする人が多かったのが、オウムで、物理的に形として変えようとしていた人が多かったのが連合赤軍だということではなかったか。
そして、どちらも同じように、一つの得体のしれないモノ(麻原とか、共産主義)に対して、自分を「ゆだねる」ことによって、思考停止し、自分(世界の)の解放が行なわれて、それによって救われると「信じ」たんだ。
※「ゆだねる」ということは、理念なり、死後の世界なり、将来的な世界設計なりの完成図を提示して、保証してくれている宗教やイデオロギーに任せちゃうということ。
元連合赤軍派戦士の植垣さんという人が、「連合赤軍には、理念なんか関係なかった。」とかいっていたのが面白かった。つまり、大学で、学生運動を始めたら、いきなり機動隊が入ってきて、自分達の要求をのませるためには、力で機動隊をまず排除しなければならないという現実がアリ、その現実的、物理的な力に対抗するために「武器」が必要だった・・・と。だからとにかく、優秀な戦士が必要なのであって、そこに理念を必要としなかった。だからその活動を継続させるために必要な理念を、既成のマルクスとか毛沢東から持ってこざるを得なかった。
宗教の中に、「死後の世界」と言うものを担保してくれるものがあることで、同じ共有する価値観を持つもの同志として、その「自分の死」自体に対して寛容になることが、「他人の死」に対しても鈍感になってしまう。・・・と言う実感は、オウムを研究していた人も、連合赤軍の植垣さんも同様に感じているようだった。・・・つまりこういう意味では、イデオロギーも宗教の範疇に入れてもおかしくないかも。
これは、今のイラク侵略とか、パレスチナ問題とか、ここでカルト国家アメリカを支持表明している人達のことを考えると、ものすごく分る気がしました。
そして、宮崎音弥さんの言っていたことは、多分、「死」なんて言うものを一生懸命考える人は、それなりに非常に「真面目」なんだけど、それは、私達、現実を生きているそれぞれの人とは、全く価値観を異にするわけだけど、そういう、「真面目」にやる人達によって、私達一般の人達が巻き込まれていくこと、には疑問を感じる。
つまり、真面目にやるという強さというか直線性とか、純粋性は、必ずしも良い方向に行くとも限らず、(しかし、「やる!」と主張するほうが、「やらない」と主張するより世の中に通りやすいという現実がある)これはもしかしたら、否定されるべきで、現実世界の多様性の方が、社会としては、互いにそれぞれ違う方向にベクトルが向いているという意味で、干渉しあうという意味で、「凪」状態になり、「安定」するのではないだろうか?・・・という話をしていたのが印象に残りました。
※現代日本の現状は、そういう学生運動や、オウムからの教訓から学んだ結果として、雑多に、多様に、生きる方向を良しとしていると考えられるわけで、ここ近年の右傾化に対しては、これが一つの大きな「一定方向のベクトル」と言う意味において、同じ過ちを繰り返す原因とか発端になりはしないだろうか?・・・と私は危惧します。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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