カルト天皇教について・・・(2)
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2004/03/12 15:54 投稿番号: [33865 / 118550]
(1)天皇の対外認識の重要性
例えば、昭和天皇は、先の戦争に対して、国家としての謝罪をしましたが、それ以前に、何人かの総理大臣が同じようにやっても、周辺アジア諸国にたいしては、全く納得させることが出来なかったものを、それに比べれば、天皇の謝罪は、国内以上に対外的な説得力を持ったのではないでしょうか?
つまり、3年や4年で変わってしまう人間の言うことではなくて、ある意味で、1300年日本国として支えてきた(と、少なくとも、周辺国民は考えていると思われる)天皇の謝罪は、意味があると思います。
私はそのために「飼っている」・・・・という気持ちがあって、実は、天皇家に対しては、人間として一番人間的ではないという意味において、気の毒に感じています。・・・私は、自身の問題として考えた場合においても、あの強大な資産という見返りと代償にして相当考えたのちに、やはり辞退するだろうというほどのものだと考えています。
※天皇の方から辞退したいということであれば、天皇制を廃止する事も考えるべきだと思いますが、私個人は、利用している側だと考えていますから、今のところその利益の方が上回り、天皇家の利害と一致している状態であると考えています。
(2)国民の模範としての意味合い
「人間として一番人間的ではない存在」としての天皇を考えると、しかしそこに、理想としての日本人としての普遍性を付加させ、また見いださせるという行為は、意味のあることではあると思います。
つまりあの無実性というか、潔白性と言うか、これは、本来の生身の人間には絶対に見いだしえない事であり、それを引き受けてくれているという意味での、感謝の代償としての位置付けが、今の象徴天皇というモノだと思います。
はじめに書いたように、こういう即物的な、象徴が存在するということは、それを利用している権力によって、束縛されると考えるか、それを積極的に偶像として、より精緻に作り上げて、それを日本の一つの活力として利用していくか?と言うことが、この民主主義という土場の上に立つ「天皇制」と言うものの持つ意味ではないだろうか?と考えるものですが、いかがでしょうか?
☆ これはチベットのダライラマに似ていると思います。
ただ、こういうことが、一つの権力の利害を保持しようとする意図の元に、私達国民の自由を束縛するものであるとすれば、それを排除するために、全力を尽くさなければならないという意味において、天皇制の本来の意味がゆがめられる自体においては、その既得権を主張する(またはそいつらに躍らされる)人間達によって、天皇制そのものが否定されうる事態になる可能性を含んでいるということに気がつかなければならないとは思います。
そして、このオシクラマンジュウのやり取りののちに、理論ではなく強引で力で押さえ込もうと考える、(つまり個人の自由を束縛するものを排除しようとする単なる自然な気持ちを主張する人達をも弾圧しなければならない状態として、)ファッショが生まれたのだということも忘れてはならないと思います。
つまり本当の意味の巨悪は、人間の個人個人の中に巣くう「欲」であり、システムとしての「天皇制」ではないのではないだろうか?と考えるのです。つまり今必要なのは、こういうシステムを利用して私腹を肥やそうとする輩を完全に防ぐ防御監視システムの完備だと考えています。そういう意味で、初歩的な問題として、本来は、「監視する対称としての情報の公開」というものは、必要な事だと考えています。
例えば、昭和天皇は、先の戦争に対して、国家としての謝罪をしましたが、それ以前に、何人かの総理大臣が同じようにやっても、周辺アジア諸国にたいしては、全く納得させることが出来なかったものを、それに比べれば、天皇の謝罪は、国内以上に対外的な説得力を持ったのではないでしょうか?
つまり、3年や4年で変わってしまう人間の言うことではなくて、ある意味で、1300年日本国として支えてきた(と、少なくとも、周辺国民は考えていると思われる)天皇の謝罪は、意味があると思います。
私はそのために「飼っている」・・・・という気持ちがあって、実は、天皇家に対しては、人間として一番人間的ではないという意味において、気の毒に感じています。・・・私は、自身の問題として考えた場合においても、あの強大な資産という見返りと代償にして相当考えたのちに、やはり辞退するだろうというほどのものだと考えています。
※天皇の方から辞退したいということであれば、天皇制を廃止する事も考えるべきだと思いますが、私個人は、利用している側だと考えていますから、今のところその利益の方が上回り、天皇家の利害と一致している状態であると考えています。
(2)国民の模範としての意味合い
「人間として一番人間的ではない存在」としての天皇を考えると、しかしそこに、理想としての日本人としての普遍性を付加させ、また見いださせるという行為は、意味のあることではあると思います。
つまりあの無実性というか、潔白性と言うか、これは、本来の生身の人間には絶対に見いだしえない事であり、それを引き受けてくれているという意味での、感謝の代償としての位置付けが、今の象徴天皇というモノだと思います。
はじめに書いたように、こういう即物的な、象徴が存在するということは、それを利用している権力によって、束縛されると考えるか、それを積極的に偶像として、より精緻に作り上げて、それを日本の一つの活力として利用していくか?と言うことが、この民主主義という土場の上に立つ「天皇制」と言うものの持つ意味ではないだろうか?と考えるものですが、いかがでしょうか?
☆ これはチベットのダライラマに似ていると思います。
ただ、こういうことが、一つの権力の利害を保持しようとする意図の元に、私達国民の自由を束縛するものであるとすれば、それを排除するために、全力を尽くさなければならないという意味において、天皇制の本来の意味がゆがめられる自体においては、その既得権を主張する(またはそいつらに躍らされる)人間達によって、天皇制そのものが否定されうる事態になる可能性を含んでいるということに気がつかなければならないとは思います。
そして、このオシクラマンジュウのやり取りののちに、理論ではなく強引で力で押さえ込もうと考える、(つまり個人の自由を束縛するものを排除しようとする単なる自然な気持ちを主張する人達をも弾圧しなければならない状態として、)ファッショが生まれたのだということも忘れてはならないと思います。
つまり本当の意味の巨悪は、人間の個人個人の中に巣くう「欲」であり、システムとしての「天皇制」ではないのではないだろうか?と考えるのです。つまり今必要なのは、こういうシステムを利用して私腹を肥やそうとする輩を完全に防ぐ防御監視システムの完備だと考えています。そういう意味で、初歩的な問題として、本来は、「監視する対称としての情報の公開」というものは、必要な事だと考えています。
これは メッセージ 33864 (assaraamaaleicomnjp さん)への返信です.
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