時代を無視すれば… 2
投稿者: moriya99 投稿日時: 2004/02/15 04:51 投稿番号: [32193 / 118550]
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当時の日本国内に画期的な進歩が無く、列強先進国に大きな遅れを取った事などです。
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ちょっと単眼的な見方じゃないかな。何を画期的な進歩とみるか、によりますけど、画期的な変動などない方がいいのかも知れないのですね。
現在でも、実は科学技術の進歩が戦争を呼んでいると言えるのですね。恒久平和への道も科学技術の進歩が何処で止まるか、これが見定められないと、描き切れないものがありますね。また、極言になりますが、科学技術の進歩が早く止まれば止まる程、現在の惨状や抱えてみる矛盾を治め易い、混乱を鎮めやすいという面もあるのですね。
確かに、現在は自然を征服する能力が非常に高い時代かも知れません。だが、これもよく考えてみると、戦争がもたらしたものなのです。確かに戦争の後は、自然の征服力は増大する。科学技術なども飛躍的に発展する。だが、戦争で得たものは戦争で得たものという出自の卑しさはそう簡単にはとれないのですね。戦争で得たものは戦争で失うし、飛躍的な発展となると人間性がついていけない混乱が起こる。その悲劇の面をみるとこれも途方もないものです。
技術の進歩はいいもののように見えますけど、原爆で殺されたり、押し寄せてきた勢力にそれまでの安定した生活を奪われた者からみれば、悪魔の技術に過ぎないですね。
技術の進歩がゆっくりでも、それによって平和と安定した社会秩序が保たれれば、平和のもたらす恩恵の方が、技術のもたらす恩恵に遥かに勝る訳です。
弱肉強食が当たり前の世界がいいか、それとも、人は一人の人間のなかにも、弱者の時代と強者の時代がある。それにキチンと目を向けた社会の方がいいか、という問題でもありますね。幼い時には親に面倒を見て貰い、老いを迎えれば若い世代に養って貰う部分が出る。それが人間です。人の面倒を見ることのできる時期と面倒を見て貰う時期があるのですね。そして、面倒もみることのできる時期の方が短い。それをどうみるか。弱肉強食の論理だけでいいのか。進歩ばかりがすべてか、という問題提起があります。
徳川というのは、技術の進歩が社会の混乱を誘発する、ということを十分に承知して対応する叡知があったようににも見えますね。一面的な見方はできないですね。
単純に較べると平和にあれば、今の生活は自然科学の発達の支えられた豊さがありますから、比較にならならないほどいいように見える。だが精神生活はどうでしょう。今の方がアクセクし、ゆとりのない生活かもしれません。知能などは江戸時代の人に較べると遥かに落ちてしまっているように見えますね。
まあ、あの時代にそのまま帰れというのは馬鹿な話しです。無茶な話しです。そんなことができる訳もない。あの時代の叡知はキチンと見たり、知ったりした方がいいということですね。
そして、改めてとり入れるものべきものをとりしれることに成功したら、今、行き詰まっている問題の解決の道が見えてくるかもしれない。破滅から逃れることができるかもしれないという話題です。
徳川の時代の人たちに較べて、私たちは「職業・結婚・信仰の自由」を謳歌しているでしょうか。それを活かしきる能力をもっている人がどれだけいるでしょうか。
自由になっても何も手に入れられなくなっている人もいるのではないですか。
結婚の相手を探せない。探しても上手くやっていけない。職業も成り行きで安定したものを手に入れられればいい方…。訳が分からなくなって身を持ち崩している人はいないでしょうか。信じるものが探せずに、心の支えを失うという結果になっていないでしょうか。
自由というのも怖いものです。力のない者には自由も自分を窮地に追い詰めるものでしかない場合もあります。
江戸時代でも庶民の日常生活のレベルでは、ささやかな自由はありますし。
私たちはささやかな自由以上のものを享受する力をどれだけ持っているでしょうか。例外的な偉人とか、立場の人はいつの時代にもいる訳ですし。
江戸時代も今の時代も、立っている視点を変えないでみると、庶民の生活など意識はあまり変わらないと思う。あっちの凄いのは長い平和の維持であり、庶民文化の台頭であり、熟成ですね。庶民がある程度幸せで、豊でないと育ってこないものです。
画期的な進歩も精神的なものはともかく、技術的なものは、それによって恩恵を被るもの、乱暴になるもの、さらにそれによって途方もない犠牲を強いられる者がいるのですね。
当時の日本国内に画期的な進歩が無く、列強先進国に大きな遅れを取った事などです。
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ちょっと単眼的な見方じゃないかな。何を画期的な進歩とみるか、によりますけど、画期的な変動などない方がいいのかも知れないのですね。
現在でも、実は科学技術の進歩が戦争を呼んでいると言えるのですね。恒久平和への道も科学技術の進歩が何処で止まるか、これが見定められないと、描き切れないものがありますね。また、極言になりますが、科学技術の進歩が早く止まれば止まる程、現在の惨状や抱えてみる矛盾を治め易い、混乱を鎮めやすいという面もあるのですね。
確かに、現在は自然を征服する能力が非常に高い時代かも知れません。だが、これもよく考えてみると、戦争がもたらしたものなのです。確かに戦争の後は、自然の征服力は増大する。科学技術なども飛躍的に発展する。だが、戦争で得たものは戦争で得たものという出自の卑しさはそう簡単にはとれないのですね。戦争で得たものは戦争で失うし、飛躍的な発展となると人間性がついていけない混乱が起こる。その悲劇の面をみるとこれも途方もないものです。
技術の進歩はいいもののように見えますけど、原爆で殺されたり、押し寄せてきた勢力にそれまでの安定した生活を奪われた者からみれば、悪魔の技術に過ぎないですね。
技術の進歩がゆっくりでも、それによって平和と安定した社会秩序が保たれれば、平和のもたらす恩恵の方が、技術のもたらす恩恵に遥かに勝る訳です。
弱肉強食が当たり前の世界がいいか、それとも、人は一人の人間のなかにも、弱者の時代と強者の時代がある。それにキチンと目を向けた社会の方がいいか、という問題でもありますね。幼い時には親に面倒を見て貰い、老いを迎えれば若い世代に養って貰う部分が出る。それが人間です。人の面倒を見ることのできる時期と面倒を見て貰う時期があるのですね。そして、面倒もみることのできる時期の方が短い。それをどうみるか。弱肉強食の論理だけでいいのか。進歩ばかりがすべてか、という問題提起があります。
徳川というのは、技術の進歩が社会の混乱を誘発する、ということを十分に承知して対応する叡知があったようににも見えますね。一面的な見方はできないですね。
単純に較べると平和にあれば、今の生活は自然科学の発達の支えられた豊さがありますから、比較にならならないほどいいように見える。だが精神生活はどうでしょう。今の方がアクセクし、ゆとりのない生活かもしれません。知能などは江戸時代の人に較べると遥かに落ちてしまっているように見えますね。
まあ、あの時代にそのまま帰れというのは馬鹿な話しです。無茶な話しです。そんなことができる訳もない。あの時代の叡知はキチンと見たり、知ったりした方がいいということですね。
そして、改めてとり入れるものべきものをとりしれることに成功したら、今、行き詰まっている問題の解決の道が見えてくるかもしれない。破滅から逃れることができるかもしれないという話題です。
徳川の時代の人たちに較べて、私たちは「職業・結婚・信仰の自由」を謳歌しているでしょうか。それを活かしきる能力をもっている人がどれだけいるでしょうか。
自由になっても何も手に入れられなくなっている人もいるのではないですか。
結婚の相手を探せない。探しても上手くやっていけない。職業も成り行きで安定したものを手に入れられればいい方…。訳が分からなくなって身を持ち崩している人はいないでしょうか。信じるものが探せずに、心の支えを失うという結果になっていないでしょうか。
自由というのも怖いものです。力のない者には自由も自分を窮地に追い詰めるものでしかない場合もあります。
江戸時代でも庶民の日常生活のレベルでは、ささやかな自由はありますし。
私たちはささやかな自由以上のものを享受する力をどれだけ持っているでしょうか。例外的な偉人とか、立場の人はいつの時代にもいる訳ですし。
江戸時代も今の時代も、立っている視点を変えないでみると、庶民の生活など意識はあまり変わらないと思う。あっちの凄いのは長い平和の維持であり、庶民文化の台頭であり、熟成ですね。庶民がある程度幸せで、豊でないと育ってこないものです。
画期的な進歩も精神的なものはともかく、技術的なものは、それによって恩恵を被るもの、乱暴になるもの、さらにそれによって途方もない犠牲を強いられる者がいるのですね。
これは メッセージ 32192 (moriya99 さん)への返信です.
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