雑文
投稿者: anasazi_mesa 投稿日時: 2003/03/13 17:37 投稿番号: [243 / 118550]
雑文なんで、軽い気持ちで読んでください。
最近の出来事と、私が考えたことなんですけど。
私は「戦争容認論者」なのですが、先日、友人と会話をしていて、こいつは話
のわかるやつだなーなんて思って、「日本も国益を考えれば、アメリカ協調だよ
ね」なんて言ったとたん、「なんだ、おまえ、戦争は何の解決にもならないこと
もわからないのか?」なんて返されて、冷や汗をかいてしまいました。もちろ
ん、この手の話題で対立するのは気まずいので、速攻で話題を変えましたけど
ね・・・・・、そして、その後で、悩んだんですよね、私は。
この認識の違いはどこから来るのだろう?って。
こいつ、オレより頭いいと思ったのに、情緒的反戦論者と同じかよ?、自分なり
に国益を考えてるオレは悪者かよ?って。
そこで、私はずいぶん考えた。なぜ、戦争に対する認識だけがこうも正反対にな
るのかって。2、3日ずーっと考えたんです、考えた末、結局こういうことか
な?っていう結論に達したので、それを書いてみようと思うんです。
かなり乱暴な結論だということは自分でもわかっていますので、ご批判は、お手
柔らかにお願いします。
結論はこうです。
反戦論者は「良心」から出発し、戦争容認論者は「論理」から出発していると。
「良心」から出発するというのは、戦争が是か非かを判断する拠り所を、最終的
に自分の良心の判断に求めているということです。
例えば、戦争によって傷ついた子供の痛ましい映像を見たときに、心が痛んだ。
これは良心の判断によるものであって、これを出発点として、戦争を考える、と
いうことです。そして考えていくうちに、いろいろ複雑な問題があったりし
て、簡単に判断が付かないとき、彼はどうするかというと、出発点に戻るんだと
思うんです。つまり、「戦争とは何だ?罪もない子供たちが傷つくことだ、それ
ならば・・・・」ということなんだろうと思うんです。
一方、「論理」から出発するというのは、戦争が是か非かを判断する拠り所
を、それが理論的かどうかに求めているということです。
例えば有名なクラウゼヴィッツの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続に
ほかならない。」という言葉は見事に論理だけによって成り立っている。そこに
は情緒や感情や好き嫌いや正義さえも排除された完璧な論理だ。というふうに考
えるんですね。そして、こちらも時として判断に迷うことがある。そんときにど
うするかというと、「感情に流されては正しい判断ができなくなるから気をつけ
ろ」と考えてしまうんですね。
このように、ある一つの事実に対して両者が考える場合でも、出発点が違うと全
く反対の結論が導き出されるということになりますね。そして、この両者はそれ
ぞれが、純粋であればあるほど、意見の対立は決定的になってしまいます。
つまりこういうことなんだな、、、と今私は考えているというわけですが・・・・・。
最近の出来事と、私が考えたことなんですけど。
私は「戦争容認論者」なのですが、先日、友人と会話をしていて、こいつは話
のわかるやつだなーなんて思って、「日本も国益を考えれば、アメリカ協調だよ
ね」なんて言ったとたん、「なんだ、おまえ、戦争は何の解決にもならないこと
もわからないのか?」なんて返されて、冷や汗をかいてしまいました。もちろ
ん、この手の話題で対立するのは気まずいので、速攻で話題を変えましたけど
ね・・・・・、そして、その後で、悩んだんですよね、私は。
この認識の違いはどこから来るのだろう?って。
こいつ、オレより頭いいと思ったのに、情緒的反戦論者と同じかよ?、自分なり
に国益を考えてるオレは悪者かよ?って。
そこで、私はずいぶん考えた。なぜ、戦争に対する認識だけがこうも正反対にな
るのかって。2、3日ずーっと考えたんです、考えた末、結局こういうことか
な?っていう結論に達したので、それを書いてみようと思うんです。
かなり乱暴な結論だということは自分でもわかっていますので、ご批判は、お手
柔らかにお願いします。
結論はこうです。
反戦論者は「良心」から出発し、戦争容認論者は「論理」から出発していると。
「良心」から出発するというのは、戦争が是か非かを判断する拠り所を、最終的
に自分の良心の判断に求めているということです。
例えば、戦争によって傷ついた子供の痛ましい映像を見たときに、心が痛んだ。
これは良心の判断によるものであって、これを出発点として、戦争を考える、と
いうことです。そして考えていくうちに、いろいろ複雑な問題があったりし
て、簡単に判断が付かないとき、彼はどうするかというと、出発点に戻るんだと
思うんです。つまり、「戦争とは何だ?罪もない子供たちが傷つくことだ、それ
ならば・・・・」ということなんだろうと思うんです。
一方、「論理」から出発するというのは、戦争が是か非かを判断する拠り所
を、それが理論的かどうかに求めているということです。
例えば有名なクラウゼヴィッツの「戦争とは他の手段をもってする政治の継続に
ほかならない。」という言葉は見事に論理だけによって成り立っている。そこに
は情緒や感情や好き嫌いや正義さえも排除された完璧な論理だ。というふうに考
えるんですね。そして、こちらも時として判断に迷うことがある。そんときにど
うするかというと、「感情に流されては正しい判断ができなくなるから気をつけ
ろ」と考えてしまうんですね。
このように、ある一つの事実に対して両者が考える場合でも、出発点が違うと全
く反対の結論が導き出されるということになりますね。そして、この両者はそれ
ぞれが、純粋であればあるほど、意見の対立は決定的になってしまいます。
つまりこういうことなんだな、、、と今私は考えているというわけですが・・・・・。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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