アメリカの狂気、小泉の狂気----引用
投稿者: naokoyumi 投稿日時: 2003/04/11 09:33 投稿番号: [23861 / 118550]
夢のような
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しかし、手の届くような気のする可能性
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-を利用しようと、漠然とでも考えない者がいるであろうか。スターやチヤンピオンになりたいと願わない者がいるであろうか。
しかし、これらの無数の夢想家の内、最初の難関でどれほどのヒトが諦め、どれほどのヒトがそれに取り組むであろうか。殆ど全てのヒトが、主人公を仲介として「委任/同一化」によって成功を味あう方を選ぶのは、そのために他ならない。彼らは、結局のところ、主人公によって、代理されていると感じるのである。
誰でも幻想を持つことが許され、もし本当に運を試し、選ばれようとするならば払わねばならない努力を免除される。
表面的で漠然としてはいるガ、永劫的で執拗で普遍的なこの同一化は、民主主義社会の本質的調整論の一つとなっている。大部分のヒトにとっては、陰気で単調で退屈な生活を紛らせ、気晴らしを与えてくれるものは、この幻想だけである。
このような転移 ------ いやむしろ疎外というべきであるが ---- -が進めば、青年層全体を突如として捕らえる一種の伝染性ヒステリーまで行き着くのが普通である。しかも、この魅惑は、新聞、ラジオ、テレビによって促進される。ポスターや写真入り週刊誌になどよって顔は至る所に出現し、避けようのない魅惑的なイメージとなる。
こうした短命の神々とも言える主人公と、崇拝者の群との間には絶えざる浸透が存在する。崇拝者は、主人公の趣味、道楽、迷信、その生活の最も詰まらない部分まで熟知している。
こうした情熱的献身は、集団的熱狂や自爆の伝染を排除するものではないからである。
同一化の精神行動は偶像崇拝に繋がる。
こうした態度は、最も普及したものに属するが、やはり奇妙な態度である。
成功の世界に入る希望もなく、事態打開の固い決意もない諦め切った大衆には、発病寸前の軽症の擬態が、無害な埋め合わせをする。ミミクリーは薄められ、退化する。仮面を奪われたミミクリーは、もう憑依や催眠には至らず、最も空しい妄想に逢着する。
同じ時、これより更に力を失った「眩暈」は、最早、それに対応する変質によってしか、即ち、アルコールや麻薬、暴力から得られる酩酊によってしか、永続的で強力な作用を及ぼすことが出来ない。仮面や変装と同じく、現実生活から切り離されたこのような挿話的役割では、模擬とトランスでの、終に屈服した力の毒性を汲み尽すには至らないのであろう。
無口で執拗な破壊の狂気の不可解な爆発に繋がる。このような逸脱は発作に過ぎず、今後、それが常態になることもないであろう。それがもたらすものは、最早、単なる無意味な錯乱に過ぎず、一時的に人々を怖がらせるだけである。
狂人は、最早、取り憑いた主人公の狂乱した通訳とはされない。狂人に、予言力、治癒力があるとは考えられない。
Secundum secundatum; R. Cailloois, 1958,
清水幾太郎ら訳参照
しかし、これらの無数の夢想家の内、最初の難関でどれほどのヒトが諦め、どれほどのヒトがそれに取り組むであろうか。殆ど全てのヒトが、主人公を仲介として「委任/同一化」によって成功を味あう方を選ぶのは、そのために他ならない。彼らは、結局のところ、主人公によって、代理されていると感じるのである。
誰でも幻想を持つことが許され、もし本当に運を試し、選ばれようとするならば払わねばならない努力を免除される。
表面的で漠然としてはいるガ、永劫的で執拗で普遍的なこの同一化は、民主主義社会の本質的調整論の一つとなっている。大部分のヒトにとっては、陰気で単調で退屈な生活を紛らせ、気晴らしを与えてくれるものは、この幻想だけである。
このような転移 ------ いやむしろ疎外というべきであるが ---- -が進めば、青年層全体を突如として捕らえる一種の伝染性ヒステリーまで行き着くのが普通である。しかも、この魅惑は、新聞、ラジオ、テレビによって促進される。ポスターや写真入り週刊誌になどよって顔は至る所に出現し、避けようのない魅惑的なイメージとなる。
こうした短命の神々とも言える主人公と、崇拝者の群との間には絶えざる浸透が存在する。崇拝者は、主人公の趣味、道楽、迷信、その生活の最も詰まらない部分まで熟知している。
こうした情熱的献身は、集団的熱狂や自爆の伝染を排除するものではないからである。
同一化の精神行動は偶像崇拝に繋がる。
こうした態度は、最も普及したものに属するが、やはり奇妙な態度である。
成功の世界に入る希望もなく、事態打開の固い決意もない諦め切った大衆には、発病寸前の軽症の擬態が、無害な埋め合わせをする。ミミクリーは薄められ、退化する。仮面を奪われたミミクリーは、もう憑依や催眠には至らず、最も空しい妄想に逢着する。
同じ時、これより更に力を失った「眩暈」は、最早、それに対応する変質によってしか、即ち、アルコールや麻薬、暴力から得られる酩酊によってしか、永続的で強力な作用を及ぼすことが出来ない。仮面や変装と同じく、現実生活から切り離されたこのような挿話的役割では、模擬とトランスでの、終に屈服した力の毒性を汲み尽すには至らないのであろう。
無口で執拗な破壊の狂気の不可解な爆発に繋がる。このような逸脱は発作に過ぎず、今後、それが常態になることもないであろう。それがもたらすものは、最早、単なる無意味な錯乱に過ぎず、一時的に人々を怖がらせるだけである。
狂人は、最早、取り憑いた主人公の狂乱した通訳とはされない。狂人に、予言力、治癒力があるとは考えられない。
Secundum secundatum; R. Cailloois, 1958,
清水幾太郎ら訳参照
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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