◎◎RE: 戦争 -> 国際刑事裁判所◎◎
投稿者: native_born_lonely 投稿日時: 2003/04/11 02:17 投稿番号: [23765 / 118550]
横から失礼します。このスレッドの中の方に、法、あるいは国際機関にお詳しそうな方がおられるようです。
質問なのですが、お手数でなければ教えてください。
一例ですが、昨年、ブレア首相の奥方が、中東における自爆テロに関して、彼らの気持ちも分るという趣旨の発言をして顰蹙を買い、前言を撤回する、という小さな事件がありました。
意図的にターゲットとされた側の立場に立てば、当然批判されるべきことでした。
一方で、アラブの中に「イスラエル抹殺」を公言し、さらには子供達にまでそれを「教育」している、という現実があります。
いわば言論による心理的な暴力が野放しになっている訳です。
これに対して、世論は、一方的にイスラエルの占領行為や対テロ行動を批判し、国際機関もまた、そのことのみを問題としています。
こうした「片手落ち」の正論がイスラエルを極右化に追込んでいる、ということに対して、国際社会は奇妙かつ不公正な無頓着さを示しています。
法は、具体的な行為は取り扱えるが、言論による心理的な暴力は黙殺できるというものでもないと思うのです。
国連という「国益」の介在がおおっぴらに認められてきた「賛否採択」の場では、多数決などというものに正義があるとはとても認められません。
国際刑事裁判所は、この点について――つまり言論による心理的暴力の存在について――まず正統な批判と継続的な監視の眼をもった咎めを与え、そのあとに、本当に占領あるいはテロ対策行為が不当であるかどうかを判断する、ということが、法の公平性の下で機能し得るものなのでしょうか?
エジプト大統領の「百人のビンラディン」という懸念は、現実的に、国際社会にとっての「今そこにある危機」となりつつあります。
仮に今後、彼らに同情/同調/理解などを示す声が上がるのならば、そのこと自体が、世界市民の日常生活にとって、大いなる心理的暴力である、と私は考えます。
本日のニュース・ステーションでも、戦争被害に巻き込まれた家族(子供たち)が、将来テロリストになったら、どう責任を取るのか、という声が報じられていました。
その声の主は、テロが実際に起こったら、その原因に眼を向け、その動機を容認するような発言に拘り続ける、という非常に危険な、感情的とも言えるメンタリティーを、折に触れ共有するように働きかけるような気がします。
だが、その際に、「テロ」(意図的に市民の命をターゲットとした殺戮行為)は断固として否定されるべき犯罪である、という最も忘れてはならない重要な視点が、忘れられ、薄められ、ぼやけさせられるということさえ、私は懸念しています。
感情的な同情は、居心地がいい。自分の無力さを慰めてもくれる。だが、ときにそれは、無責任極まりない心理的な暴力を生むのです。
これについて、国際機関として、法に基づいて機能すべき国際刑事裁判所には、実効性のある正統性を期待できるのかどうかが、私の質問のポイントです。
否であるならば、新たな機関の設立に向けた市民運動が必要なのではないかと考えています。
質問なのですが、お手数でなければ教えてください。
一例ですが、昨年、ブレア首相の奥方が、中東における自爆テロに関して、彼らの気持ちも分るという趣旨の発言をして顰蹙を買い、前言を撤回する、という小さな事件がありました。
意図的にターゲットとされた側の立場に立てば、当然批判されるべきことでした。
一方で、アラブの中に「イスラエル抹殺」を公言し、さらには子供達にまでそれを「教育」している、という現実があります。
いわば言論による心理的な暴力が野放しになっている訳です。
これに対して、世論は、一方的にイスラエルの占領行為や対テロ行動を批判し、国際機関もまた、そのことのみを問題としています。
こうした「片手落ち」の正論がイスラエルを極右化に追込んでいる、ということに対して、国際社会は奇妙かつ不公正な無頓着さを示しています。
法は、具体的な行為は取り扱えるが、言論による心理的な暴力は黙殺できるというものでもないと思うのです。
国連という「国益」の介在がおおっぴらに認められてきた「賛否採択」の場では、多数決などというものに正義があるとはとても認められません。
国際刑事裁判所は、この点について――つまり言論による心理的暴力の存在について――まず正統な批判と継続的な監視の眼をもった咎めを与え、そのあとに、本当に占領あるいはテロ対策行為が不当であるかどうかを判断する、ということが、法の公平性の下で機能し得るものなのでしょうか?
エジプト大統領の「百人のビンラディン」という懸念は、現実的に、国際社会にとっての「今そこにある危機」となりつつあります。
仮に今後、彼らに同情/同調/理解などを示す声が上がるのならば、そのこと自体が、世界市民の日常生活にとって、大いなる心理的暴力である、と私は考えます。
本日のニュース・ステーションでも、戦争被害に巻き込まれた家族(子供たち)が、将来テロリストになったら、どう責任を取るのか、という声が報じられていました。
その声の主は、テロが実際に起こったら、その原因に眼を向け、その動機を容認するような発言に拘り続ける、という非常に危険な、感情的とも言えるメンタリティーを、折に触れ共有するように働きかけるような気がします。
だが、その際に、「テロ」(意図的に市民の命をターゲットとした殺戮行為)は断固として否定されるべき犯罪である、という最も忘れてはならない重要な視点が、忘れられ、薄められ、ぼやけさせられるということさえ、私は懸念しています。
感情的な同情は、居心地がいい。自分の無力さを慰めてもくれる。だが、ときにそれは、無責任極まりない心理的な暴力を生むのです。
これについて、国際機関として、法に基づいて機能すべき国際刑事裁判所には、実効性のある正統性を期待できるのかどうかが、私の質問のポイントです。
否であるならば、新たな機関の設立に向けた市民運動が必要なのではないかと考えています。
これは メッセージ 23719 (rachi_yamero さん)への返信です.
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