ドミトリー・プロホロフのインタビュー要約
投稿者: battamother 投稿日時: 2008/12/23 10:46 投稿番号: [115659 / 118550]
『GRU帝国』のドミトリー・プロホロフのインタビューが、月刊『正論』2006年4月号で【「張作霖爆殺はソ連の謀略」と断言するこれだけの根拠】という記事に掲載された。
そのインタビューを要約したものがあったので、これもご紹介。
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張作霖は1924年9月20日に、ソ連と「奉ソ協定」を締結し、東支鉄道(東清鉄道、中東鉄路)の共同経営を行った。
しかし、張作霖軍は鉄道使用代金の未払いを続け、その額が膨らんでいた。
1926年1月、ソ連がこれに抗議して、鉄道の使用禁止を通達すると、張作霖軍はこれに反発し、鉄道を実力で占拠して、同年9月には実権を握った。
こうした張作霖の反ソ的な姿勢に対し、スターリンのソ連政府は、張作霖の暗殺を、軍特務機関のフリストフォル・サルヌイン(サルーニン)に命じた。
サルヌインは暗殺計画を立案し、ソ連特務機関GRUのレオニード・ブルラコフが協力した。
一回目の張作霖暗殺計画は1926年9月末の奉天の張作霖の宮殿での音楽会を目標に企てられた。
しかしこれは張作霖の特務機関が察知、爆発物は押収され、未遂に終わる。
張作霖は、ブルラコフら3人を逮捕。
その後、張作霖は、モスクワに対してあからさまな敵対的行動に出た。
1927年4月には、北京のソ連総領事館に強制捜査を行い、暗号表や工作員リスト、モスクワからの指示書等を押収した。
張作霖は、支那共産党に対しても、共産党員を多数逮捕するなど、共産主義に対する弾圧を行った。
また、亡命ロシア人や土匪部隊を仕向けて、ソ連領を侵犯させるなどした。
その一方、張作霖は、1928年、日本側と交渉を始め、日本政府の支持を得て、満州に反共・反ソの独立した満洲共和国を創設しようと画策した。
この動きは、ソ連合同国家保安部の諜報員、ナウム・エイチンゴン(エイティンゴン)がモスクワに知らせた。
クレムリンには、日本と張作霖の交渉は、ソ連の極東方面の国境に対する直接的な脅威と映った。
スターリンは再び、張作霖の暗殺を実行に移す決定を下し、命令した。
暗殺計画の立案とその実行には、クレムリンに報告をあげたエイチンゴンと、1回目の暗殺計画を任命されたが失敗したサルヌインが任命された。
(1927-28年当時、GRUの支那における活動の中心は上海にあり、組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織があり、1927年に着任したサルヌインが非合法諜報組織の長をしていた。)
サルヌインは、上海で非合法工作員のとりまとめ役をしていたが、満洲においても多数の工作員を抱えていた。
張作霖暗殺の疑惑を、日本に向けることが重要だった。
1928年6月4日夜、張作霖が北京から奉天に向かう列車は、奉天郊外で爆破された。
重症を負った張は、その後、死亡した。
東京裁判では、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が、「河本大佐の計画で実行された」「爆破を行ったのは、京城工兵第20連隊の一部の将校と下士官十数名」「使った爆薬は、工兵隊のダイナマイト200個」などと証言した。
しかし、日本では、東京裁判後、日本には張作霖を暗殺する理由がまったくなく、暗殺には関与していないという声があがった。
1990年代初め、ソ連の最高機密資料に接しうる立場の元特務機関幹部で歴史家のドミトリー・ボルゴヌフ氏は、ロシア紙のインタビューの中で、ロシア革命の指導者の一人、トロツキーの死因を調べている際に、偶然、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺された資料を見つけたという。
メキシコでのトロツキー暗殺に関与していたのはエイチンゴンだった。
そのインタビューを要約したものがあったので、これもご紹介。
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張作霖は1924年9月20日に、ソ連と「奉ソ協定」を締結し、東支鉄道(東清鉄道、中東鉄路)の共同経営を行った。
しかし、張作霖軍は鉄道使用代金の未払いを続け、その額が膨らんでいた。
1926年1月、ソ連がこれに抗議して、鉄道の使用禁止を通達すると、張作霖軍はこれに反発し、鉄道を実力で占拠して、同年9月には実権を握った。
こうした張作霖の反ソ的な姿勢に対し、スターリンのソ連政府は、張作霖の暗殺を、軍特務機関のフリストフォル・サルヌイン(サルーニン)に命じた。
サルヌインは暗殺計画を立案し、ソ連特務機関GRUのレオニード・ブルラコフが協力した。
一回目の張作霖暗殺計画は1926年9月末の奉天の張作霖の宮殿での音楽会を目標に企てられた。
しかしこれは張作霖の特務機関が察知、爆発物は押収され、未遂に終わる。
張作霖は、ブルラコフら3人を逮捕。
その後、張作霖は、モスクワに対してあからさまな敵対的行動に出た。
1927年4月には、北京のソ連総領事館に強制捜査を行い、暗号表や工作員リスト、モスクワからの指示書等を押収した。
張作霖は、支那共産党に対しても、共産党員を多数逮捕するなど、共産主義に対する弾圧を行った。
また、亡命ロシア人や土匪部隊を仕向けて、ソ連領を侵犯させるなどした。
その一方、張作霖は、1928年、日本側と交渉を始め、日本政府の支持を得て、満州に反共・反ソの独立した満洲共和国を創設しようと画策した。
この動きは、ソ連合同国家保安部の諜報員、ナウム・エイチンゴン(エイティンゴン)がモスクワに知らせた。
クレムリンには、日本と張作霖の交渉は、ソ連の極東方面の国境に対する直接的な脅威と映った。
スターリンは再び、張作霖の暗殺を実行に移す決定を下し、命令した。
暗殺計画の立案とその実行には、クレムリンに報告をあげたエイチンゴンと、1回目の暗殺計画を任命されたが失敗したサルヌインが任命された。
(1927-28年当時、GRUの支那における活動の中心は上海にあり、組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織があり、1927年に着任したサルヌインが非合法諜報組織の長をしていた。)
サルヌインは、上海で非合法工作員のとりまとめ役をしていたが、満洲においても多数の工作員を抱えていた。
張作霖暗殺の疑惑を、日本に向けることが重要だった。
1928年6月4日夜、張作霖が北京から奉天に向かう列車は、奉天郊外で爆破された。
重症を負った張は、その後、死亡した。
東京裁判では、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が、「河本大佐の計画で実行された」「爆破を行ったのは、京城工兵第20連隊の一部の将校と下士官十数名」「使った爆薬は、工兵隊のダイナマイト200個」などと証言した。
しかし、日本では、東京裁判後、日本には張作霖を暗殺する理由がまったくなく、暗殺には関与していないという声があがった。
1990年代初め、ソ連の最高機密資料に接しうる立場の元特務機関幹部で歴史家のドミトリー・ボルゴヌフ氏は、ロシア紙のインタビューの中で、ロシア革命の指導者の一人、トロツキーの死因を調べている際に、偶然、張作霖がソ連軍諜報局によって暗殺された資料を見つけたという。
メキシコでのトロツキー暗殺に関与していたのはエイチンゴンだった。
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