バカハムちゃんの為の「歴史教科書」①
投稿者: battamother 投稿日時: 2008/12/13 13:12 投稿番号: [115469 / 118550]
櫨溝橋事件が中国共産党の陰謀であったことは今更敢えて言うまでもないし、かつてこのトピで私もその件には既に触れた。
今回は、更なるその経緯の詳細と、抹殺された「通州邦人惨殺事件」について、渡部昇一氏の歴史本の内容の一部借りてご紹介。
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満州の居留保護および満州国建国は欧米的な意味での「侵略」ではなかったが、それが政府のコントロールを受けずに進んだということは、きわめて悪しき先例となった。
元はと言えば、明治憲法の中に首相や内閣のことが書かれていなかったために、「われわれは政府の意図を受けないでいいのだ」と軍が主張しはじめたことに端を発している。
この「統帥権問題」が明らかになってからと言うもの、軍の中では“下克上”の雰囲気が急速に強まった。つまり、大儀のためなら上官の言うことに逆らってもいい、という雰囲気が若手将校の中に広がったのである。
満州事変は、そのような“下克上”の雰囲気が生み出したものであった、この暴走に対して政府も軍首脳も、きちんとした形で彼らを処罰することが出来なかった。統帥権の問題があるから、政府は強い態度に出られない。また、軍の首脳も自分自身が“下克上”をしているという弱みがあるから何も言えないのである。
この満州事変を見て、勢いづいたのは軍内部にいた国家社会主義者たちである。五・一五事件が満州事変の翌年に起きたのは、けっして偶然ではない。彼らは「憂国の心があれば首相を殺してもいいのだ」という理屈で、この事件を起こした。まさに“下克上”である。このときも、軍は首謀者達を極刑にすることが出来なかった。
そして、この五・一五事件に味をしめて行われたのが、二・二六事件であった。二・二六事件で反乱軍が首都を占拠し、政府高官が暗殺されるのを見て、日本人は挙げて震え上がった。軍の意向に逆らっては命が危ないのが、誰の目にも明らかになったのである。実際、二・二六事件以後、軍に逆らうような政治家は、ごく一部の例外を除いていなくなり、日本は国家社会主義への道を驀進することになった。シナ事変(日華事変)は、こうした状況の中で起こったことである。
政府をまったく無視して日本軍がシナ大陸で戦争を始め、誰もそれを止められなくなったというのは、まことに遺憾な出来事であった。明治憲法の欠陥が、ついに日本を戦争に引きずり込んだのである。
だが、このシナ事変の発端が、出先の日本軍が仕組んだ“侵略”であったかといえば、それは違う。東京裁判は、日本を悪と決めつけるために行われたものであったから、「シナ事変の一連の出来事は、すべて日本軍の陰謀でおこされた」という判決が出た。そして、その結論がそのまま戦後の歴史観に反映された。しかし、ことはそう単純ではない。
それはシナ事変の発端となった櫨溝橋事件にしても同じである。
事件は、昭和12年7月7日の夜10時、櫨溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。
ところが、翌8日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こった。さすがにこのとき日本軍は戦闘態勢に入るのだが、事件が拡大することを恐れて、直前で攻撃を中止する。すると今度は、日本軍が攻撃を始めたと思ったのか、中国軍が攻撃を開始した。これが櫨溝橋事件勃発の真相であった。
この経過を見ても分かるとおり、櫨溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという姿勢は全くない。実際、発砲を受けた中隊は、その直前に夜間演習を行っていたのだが、誤射事故が起こるのを恐れて、実弾を装填していなかったという。彼らは鉄カブトすら被っていなかった。
今回は、更なるその経緯の詳細と、抹殺された「通州邦人惨殺事件」について、渡部昇一氏の歴史本の内容の一部借りてご紹介。
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満州の居留保護および満州国建国は欧米的な意味での「侵略」ではなかったが、それが政府のコントロールを受けずに進んだということは、きわめて悪しき先例となった。
元はと言えば、明治憲法の中に首相や内閣のことが書かれていなかったために、「われわれは政府の意図を受けないでいいのだ」と軍が主張しはじめたことに端を発している。
この「統帥権問題」が明らかになってからと言うもの、軍の中では“下克上”の雰囲気が急速に強まった。つまり、大儀のためなら上官の言うことに逆らってもいい、という雰囲気が若手将校の中に広がったのである。
満州事変は、そのような“下克上”の雰囲気が生み出したものであった、この暴走に対して政府も軍首脳も、きちんとした形で彼らを処罰することが出来なかった。統帥権の問題があるから、政府は強い態度に出られない。また、軍の首脳も自分自身が“下克上”をしているという弱みがあるから何も言えないのである。
この満州事変を見て、勢いづいたのは軍内部にいた国家社会主義者たちである。五・一五事件が満州事変の翌年に起きたのは、けっして偶然ではない。彼らは「憂国の心があれば首相を殺してもいいのだ」という理屈で、この事件を起こした。まさに“下克上”である。このときも、軍は首謀者達を極刑にすることが出来なかった。
そして、この五・一五事件に味をしめて行われたのが、二・二六事件であった。二・二六事件で反乱軍が首都を占拠し、政府高官が暗殺されるのを見て、日本人は挙げて震え上がった。軍の意向に逆らっては命が危ないのが、誰の目にも明らかになったのである。実際、二・二六事件以後、軍に逆らうような政治家は、ごく一部の例外を除いていなくなり、日本は国家社会主義への道を驀進することになった。シナ事変(日華事変)は、こうした状況の中で起こったことである。
政府をまったく無視して日本軍がシナ大陸で戦争を始め、誰もそれを止められなくなったというのは、まことに遺憾な出来事であった。明治憲法の欠陥が、ついに日本を戦争に引きずり込んだのである。
だが、このシナ事変の発端が、出先の日本軍が仕組んだ“侵略”であったかといえば、それは違う。東京裁判は、日本を悪と決めつけるために行われたものであったから、「シナ事変の一連の出来事は、すべて日本軍の陰謀でおこされた」という判決が出た。そして、その結論がそのまま戦後の歴史観に反映された。しかし、ことはそう単純ではない。
それはシナ事変の発端となった櫨溝橋事件にしても同じである。
事件は、昭和12年7月7日の夜10時、櫨溝橋に駐屯していた日本軍の一個中隊に向けて、何者かが発砲したことから始まった。周囲に中国軍(国民政府軍)が駐屯していたから、彼らが発砲したのではと思われたので、日本軍は軍使を派遣することにした。
ところが、翌8日の早朝4時、ふたたび日本軍に向けた発砲事件が起こった。さすがにこのとき日本軍は戦闘態勢に入るのだが、事件が拡大することを恐れて、直前で攻撃を中止する。すると今度は、日本軍が攻撃を始めたと思ったのか、中国軍が攻撃を開始した。これが櫨溝橋事件勃発の真相であった。
この経過を見ても分かるとおり、櫨溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという姿勢は全くない。実際、発砲を受けた中隊は、その直前に夜間演習を行っていたのだが、誤射事故が起こるのを恐れて、実弾を装填していなかったという。彼らは鉄カブトすら被っていなかった。
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