Re: ヒットラーの宗教ですが、、
投稿者: bonno_216 投稿日時: 2007/09/04 09:55 投稿番号: [109564 / 118550]
>彼のカトリック教に関する姿勢をあなたはどう理解してますか?
ナチス政権はバチカンと概ね良好な関係にあったし、宗教弾圧も(一部の戦闘的な宗派は別にして)してなかったし、ナチ高官の中にはゲッペルスのような「神父様」も居たわけですから、ヒトラーがカトリックを敵視していなかったということだけは確かでしょう。
しかし、彼がカトリックを信仰していたとか、熱心な信者だったとは考えられません。いやむしろ教会に対しては懐疑的、かつ批判的であった思われる記録がいくつか残されています。
一例を挙げれば、ボルマン・メモ(もしくはボルマン覚書)に、ヒトラー自身の言葉として以下のような事が述べられています。
●「信仰とは、信じない者には力によって強制すべきものであるらしい。もし人間が神を信じることを神自身が望んでおられるのであれば、なぜ責め苦によってその目的を果たそうとなさるのだろう。ついでながら一ついっておきたいことがある。よきカトリック教徒だと自認する人々の中でも、教会の宣伝するたわごとを全面的に信じている人はほんのわずかにすぎないということだ。熱心に教会に行くのは、もう人生から降りて諦念している婆さんたちだけだ。教会の広めるたわごとは、すべて無用の長物だ。そんなものにかかずらって時間をむだにしてはいけない。」
●「宗教に関しては、我々は寛容の時代に入りつつあるのかもしれない。誰もが自分に最もふさわしい形の救いを求めるのが許される時代だ。古代社会にはこの種の寛容さがあった。改宗の必要などなかったのだ。私が教会堂に入って行ったとしても、それはイエスやマリアの像を打ち倒すためではない。美しいものを求めて行くのだ。」
●「私は私自身の信念に従って行動している。他人が黙祷するのを妨げるつもりはない。しかし、神への冒涜は許せない。私のために頼んでもいない祈祷などしてくれるな。」
●「教会は魂の救いを売り物にインチキ商売をしている。残酷極まりない。私の考えを力ずくで他人に押し付けることはできない。しかし、他人の肉体や魂に苦痛を与えて喜ぶような人々には、私は恐怖すら覚える。」
●「神が雷光を起こすという時、ある意味でそれは正しい。しかし教会が主張するように、神が落雷を発生させるわけではない。自然現象についての教会の説明が間違っているのは、教会に下心があるからである。己の弱さと無知を知る者には真の敬虔さがある。方舟や礼拝堂にしか神を見られないのでは、本当に敬虔とはいえない。それは見せかけにこだわる人間にすぎず、雷が鳴り、稲光が光れば、犯した罪を罰せられるのかと脅えるだけなのだ。」
ちょっと引用が長くなりました。ボルマン・メモには、この他にも「キリストはユダヤ人ではなくアーリア人だった」とか、彼独特の宗教観、世界観が披露されていますが、これらすべてがヒトラーの本心であったかと言えば、そうとも言い切れないでしょう。ずるいようですが、彼の心の中を完全に見通すことなど不可能である以上、彼の宗教観について「これこれ、こういうものであった」と断言することは遠慮しておきます。
ナチス政権はバチカンと概ね良好な関係にあったし、宗教弾圧も(一部の戦闘的な宗派は別にして)してなかったし、ナチ高官の中にはゲッペルスのような「神父様」も居たわけですから、ヒトラーがカトリックを敵視していなかったということだけは確かでしょう。
しかし、彼がカトリックを信仰していたとか、熱心な信者だったとは考えられません。いやむしろ教会に対しては懐疑的、かつ批判的であった思われる記録がいくつか残されています。
一例を挙げれば、ボルマン・メモ(もしくはボルマン覚書)に、ヒトラー自身の言葉として以下のような事が述べられています。
●「信仰とは、信じない者には力によって強制すべきものであるらしい。もし人間が神を信じることを神自身が望んでおられるのであれば、なぜ責め苦によってその目的を果たそうとなさるのだろう。ついでながら一ついっておきたいことがある。よきカトリック教徒だと自認する人々の中でも、教会の宣伝するたわごとを全面的に信じている人はほんのわずかにすぎないということだ。熱心に教会に行くのは、もう人生から降りて諦念している婆さんたちだけだ。教会の広めるたわごとは、すべて無用の長物だ。そんなものにかかずらって時間をむだにしてはいけない。」
●「宗教に関しては、我々は寛容の時代に入りつつあるのかもしれない。誰もが自分に最もふさわしい形の救いを求めるのが許される時代だ。古代社会にはこの種の寛容さがあった。改宗の必要などなかったのだ。私が教会堂に入って行ったとしても、それはイエスやマリアの像を打ち倒すためではない。美しいものを求めて行くのだ。」
●「私は私自身の信念に従って行動している。他人が黙祷するのを妨げるつもりはない。しかし、神への冒涜は許せない。私のために頼んでもいない祈祷などしてくれるな。」
●「教会は魂の救いを売り物にインチキ商売をしている。残酷極まりない。私の考えを力ずくで他人に押し付けることはできない。しかし、他人の肉体や魂に苦痛を与えて喜ぶような人々には、私は恐怖すら覚える。」
●「神が雷光を起こすという時、ある意味でそれは正しい。しかし教会が主張するように、神が落雷を発生させるわけではない。自然現象についての教会の説明が間違っているのは、教会に下心があるからである。己の弱さと無知を知る者には真の敬虔さがある。方舟や礼拝堂にしか神を見られないのでは、本当に敬虔とはいえない。それは見せかけにこだわる人間にすぎず、雷が鳴り、稲光が光れば、犯した罪を罰せられるのかと脅えるだけなのだ。」
ちょっと引用が長くなりました。ボルマン・メモには、この他にも「キリストはユダヤ人ではなくアーリア人だった」とか、彼独特の宗教観、世界観が披露されていますが、これらすべてがヒトラーの本心であったかと言えば、そうとも言い切れないでしょう。ずるいようですが、彼の心の中を完全に見通すことなど不可能である以上、彼の宗教観について「これこれ、こういうものであった」と断言することは遠慮しておきます。
これは メッセージ 109561 (oxnardnokakashi さん)への返信です.
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