現実と価値判断
投稿者: imonoyamashotengai 投稿日時: 2007/05/13 00:24 投稿番号: [105535 / 118550]
イラクで IED に吹き飛ばされる米軍車輌の映像を
誰しも何度か観たことがあるでしょう。
「やったぜ! ざまーみろ! アメ公め!
レジスタンス万歳! 皆に一杯おごるぜ!」というエジプトの市民。
「何てことしやがるんだ! このテロリストめ!
折角イラクを解放してやったのに!」と叫ぶアメリカ人。
全く同じ現実に対して、その人その人によって、全く受け止め方が異なります。
何故、異なるのでしょうか?
それは、人間の対象認識の構造からして、そうならざるを得ないのです。
つまり、
<現実そのもの>が、頭の中に反映され
その<認識主体の価値意識>と統一され
<価値判断>されたということです。
各人の価値意識が異なるので、全く異なった受け止めとなるのです。
さて
1)分裂症。
2)イモ曰く”政策において宣言されてない論点は、全く関係ない”
3)ある意見がアメリカの公共放送PBSでながされれば、それはカルトではない。
だそうである。
これらは、上記で述べたように、この人物の価値判断した内容である。
つまり、現実そのものではない。
そのように価値判断すること自体は構わない。
人間の認識構造がそうなっているからだ。
しかし、あくまで、<現実そのもの>と<価値判断した内容>とは
明確に区別しなければならない。
例えば、
イモ曰く”政策において宣言されてない論点は、全く関係ない”
ここまで書いてしまうと、完全な偽造・捏造になってしまっている。
何故ならそんなことは、書いていないのだから。
このように記述してしまえる認識論上の誤謬は
一つには、<主観主義>という。
つまり、現実世界という<外なる世界>と自分の頭の中である<内なる世界>
この両者の区別がつかなくなり、混同することを認識論上<主観主義>という。
実は、私もしばしば、こういう誤りに陥ってしまう。
例えば
「あの姉ぇチャンは、俺の方をチラチラ見るから、俺に気があるんじゃねぇか」
ついそう思い込んでしまう。
しかし、哀しいかな<現実>は、、、、ということは、よくある。
まあこれが極端にまでイッチゃうと、ストカーということにもなってしまう。
ストーカーに於ける認識論的誤謬を論じても仕方ないが。
さて、
1)分裂症。
2)イモ曰く”政策において宣言されてない論点は、全く関係ない”
3)ある意見がアメリカの公共放送PBSでながされれば、それはカルトではない
某氏が、私の書いたものを、そう受け止めること自体は、某氏の自由なのだ
それは構わないのだ
しかし、某氏に欠如していることは
<何故そういい得るのか>という証明である
しかし、何らの<客観的根拠>も提示されていない
つまり、<私がそう思うからそうなんだ>という主観的確信だけである
そんなことする必要性がないと思っているのか
それとも意図的に避けているのか
その能力がないのか
何故なのかは、私には分からない
しかし、事実として、何ら証明されていない
だからこれらは
<未だ証明されていないもの>、<これから証明されるべきもの>に
過ぎないのだ
しかも更に悪いことに、これらの
<未だ証明されていないもの>、<これから証明されるべきもの>を使って
更に別の事項の<根拠>としていることだ
つまり何の証明にもなっていない
数学の証明問題で
これから証明すべきことを、他のことの根拠に使用しているのと
全く同じ構造である
この帰結は循環論法だ
ヘーゲルの言う悪無限だ
無限地獄ループだ
他にも色々な手口も持っているようだ
年季が入っているし、執念とパワー
最大の武器は所要時間かな
う〜ん、惜しい。実にモッタイナイ
これだけのエネルギーをもっと建設的なことに注ぎ込めばよいと思うのだが
これは本心だ。最初で最後の贈る言葉だ
最後に、だからといって、私は某氏と論争したい訳では全くない
本当は二度と遣り取りしたくないので、直接的なレスにはしない
悪無限を断ち切るのは容易ではない
少なくとも私には、そのエネルギーも時間的余裕もない
もしそんな時間があれば、もっと有益に使う
従って暫定的結論は、関わりにならないということだ
ただし、降り掛かる火の粉を振り払う権利くらいは、私にもあるので
火の粉が降り掛かってくれば、振り払うことはするだけだ
ということで、某氏の認識論的誤謬と手口の一つを指摘するに止める
誰しも何度か観たことがあるでしょう。
「やったぜ! ざまーみろ! アメ公め!
レジスタンス万歳! 皆に一杯おごるぜ!」というエジプトの市民。
「何てことしやがるんだ! このテロリストめ!
折角イラクを解放してやったのに!」と叫ぶアメリカ人。
全く同じ現実に対して、その人その人によって、全く受け止め方が異なります。
何故、異なるのでしょうか?
それは、人間の対象認識の構造からして、そうならざるを得ないのです。
つまり、
<現実そのもの>が、頭の中に反映され
その<認識主体の価値意識>と統一され
<価値判断>されたということです。
各人の価値意識が異なるので、全く異なった受け止めとなるのです。
さて
1)分裂症。
2)イモ曰く”政策において宣言されてない論点は、全く関係ない”
3)ある意見がアメリカの公共放送PBSでながされれば、それはカルトではない。
だそうである。
これらは、上記で述べたように、この人物の価値判断した内容である。
つまり、現実そのものではない。
そのように価値判断すること自体は構わない。
人間の認識構造がそうなっているからだ。
しかし、あくまで、<現実そのもの>と<価値判断した内容>とは
明確に区別しなければならない。
例えば、
イモ曰く”政策において宣言されてない論点は、全く関係ない”
ここまで書いてしまうと、完全な偽造・捏造になってしまっている。
何故ならそんなことは、書いていないのだから。
このように記述してしまえる認識論上の誤謬は
一つには、<主観主義>という。
つまり、現実世界という<外なる世界>と自分の頭の中である<内なる世界>
この両者の区別がつかなくなり、混同することを認識論上<主観主義>という。
実は、私もしばしば、こういう誤りに陥ってしまう。
例えば
「あの姉ぇチャンは、俺の方をチラチラ見るから、俺に気があるんじゃねぇか」
ついそう思い込んでしまう。
しかし、哀しいかな<現実>は、、、、ということは、よくある。
まあこれが極端にまでイッチゃうと、ストカーということにもなってしまう。
ストーカーに於ける認識論的誤謬を論じても仕方ないが。
さて、
1)分裂症。
2)イモ曰く”政策において宣言されてない論点は、全く関係ない”
3)ある意見がアメリカの公共放送PBSでながされれば、それはカルトではない
某氏が、私の書いたものを、そう受け止めること自体は、某氏の自由なのだ
それは構わないのだ
しかし、某氏に欠如していることは
<何故そういい得るのか>という証明である
しかし、何らの<客観的根拠>も提示されていない
つまり、<私がそう思うからそうなんだ>という主観的確信だけである
そんなことする必要性がないと思っているのか
それとも意図的に避けているのか
その能力がないのか
何故なのかは、私には分からない
しかし、事実として、何ら証明されていない
だからこれらは
<未だ証明されていないもの>、<これから証明されるべきもの>に
過ぎないのだ
しかも更に悪いことに、これらの
<未だ証明されていないもの>、<これから証明されるべきもの>を使って
更に別の事項の<根拠>としていることだ
つまり何の証明にもなっていない
数学の証明問題で
これから証明すべきことを、他のことの根拠に使用しているのと
全く同じ構造である
この帰結は循環論法だ
ヘーゲルの言う悪無限だ
無限地獄ループだ
他にも色々な手口も持っているようだ
年季が入っているし、執念とパワー
最大の武器は所要時間かな
う〜ん、惜しい。実にモッタイナイ
これだけのエネルギーをもっと建設的なことに注ぎ込めばよいと思うのだが
これは本心だ。最初で最後の贈る言葉だ
最後に、だからといって、私は某氏と論争したい訳では全くない
本当は二度と遣り取りしたくないので、直接的なレスにはしない
悪無限を断ち切るのは容易ではない
少なくとも私には、そのエネルギーも時間的余裕もない
もしそんな時間があれば、もっと有益に使う
従って暫定的結論は、関わりにならないということだ
ただし、降り掛かる火の粉を振り払う権利くらいは、私にもあるので
火の粉が降り掛かってくれば、振り払うことはするだけだ
ということで、某氏の認識論的誤謬と手口の一つを指摘するに止める
これは メッセージ 105510 (imonoyamashotengai さん)への返信です.
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